教会の風景(8)

港町の教会(神戸教会)

 僕は1978年に神戸教会の招聘を受けて岩国から神戸に移った。

 岩国在任は13年であった。

 神戸教会の招聘は、会員の山下長治郎の働きに負うところが大きい。

 神戸教会第11代牧師・児玉浩次郎の後任の選考委員会の長に選ばれた山下は、他にも候補の推薦があったが、神学生の頃から笠原芳光(神戸教会伝道師、同志社大学宗教主事、京都精華大学教授・同学長を歴任)と親しかった岩井を選んだ。

 教会の保守的な人々には「岩井は社会的活動に傾き過ぎる」との懸念の声もあったようだが、山下が押し切った。

 赴任以来、そこは慎重に振る舞った。

 かつて神学生当時、青年会や「地の塩会」などで交わりを持っていた、また指導した諸兄姉が支えてくれた。

 古い神戸教会の伝統を守る人たちと、笠原時代青年会や高校生だった人たちとが拮抗する役員会構成であった。

 本城敬三、平井城、橋本トミ、岡部五峰といった人たちに対して藤村洋、藤井良治、本城智子、富川直彦などが若手であった。

 山下長治郎は年配であったが若手に推されて役員会では重要な存在であった。

 神戸在任は1978年から2002年の24年間であった。


 神戸での思い出を書くと、週報の第4面に先週の説教のまとめを書いて載せていた。

 どこの教会でもよくやることであった。

 そのまとめの役割を、聖和大学のキリスト教学科からの派遣実習生の役割としていた。

 何か、教会の実質的仕事を担当してもらうための配慮もあった。

 ところがそれを知った西宮教会の牧師・棟方文雄から「あなた、前の週の説教を週報に書いているけどね、そんなことをしていたら、教会が駄目になりますよ」と言われた。

 信徒はそれを読んで礼拝に出なくなる。

 説教は『聴くものです』」といわれた。

 その次の週から、その日の説教の梗概を載せることにした。

 これは「聞き手が」説教を聞きながらより理解を深めるものである。

 しかし、週報の原稿を印刷屋「請文舎」が取りに来るのが水曜日なので、それまでに説教要旨をまとめるのは大変な作業、また準備が必要だったが、以来それを守り続けて来た。

 明治学院教会では、その習慣でその日の説教レジュメを配った。

 今までそんな経験のない会員諸兄姉には大変喜ばれた。


 神戸では「神戸教会史研究会」を始めた。

 強く勧めてくれたのは元神戸教会伝道師、精華大学学長の笠原芳光であった。

 歴史家で神戸教会員の関西学院大学教授・武藤誠が加わることで、教会内部との関わりが強く、収まりがよかった。

 実務は最初同志社の神学生の吉田亮がやったが、彼が実習が終わって、学校に戻ったので、中永公子を笠原が呼んできて実務をやってもらった。

 彼女はすごくこの役割を喜んでくれて、自分の「仕事」として励んでくれた。

 多少の手当が出るように教会側でも計らった。

 後々、中永は神戸教会に転会した。中永は俳人であった。句集『星辰図ゆるやかなれば』(ビレジプレス 2017)を出版している。岩井もここに頼まれて「出会いの人」という一文を2頁分書いた。「満月をつるせば重しがれきの街」震災後の句である。


 教会史研究会の結果は『近代日本と神戸教会』(創元社 1992)という歴史書になって残った。

 いわゆる団体の歴史は、会社の社史にしろ、教会の歴史にしろ、「紀伝体」のものが多い、つまり時代を追って、その団体の歩みを記し残すものである。

 しかし、笠原の提案もあって「社会史的方法」をもって行ったのでユニークな歴史書になって残った。

 社会史的方法とは、その時の出来事を同時代の社会はどう受け取ったかという観点をも含めて、観て行く方法である。実務は中永公子が一人でやった。実に素晴らしい仕事であった。

 写真や地図などの資料が豊富に入っているのが特徴である。

 出版も一般書として通用するようにと創元社からの出版となった。

 4百万円ほどの費用がかかった。発行部数で吸収する価格を付けたので、単価が7千円となった。笠原からは値段の高さが唯一の欠点だと指摘された。

 発行責任者の「現役牧師」の責任だと後々まで意識はしている。そのおかげで割と後までも残部があった。


 山下長治郎については、彼の短歌をまとめて残しておきたいという笠原の発案で、岩井が「山下長治郎歌集刊行委員会」を立ち上げ、1997年3月9日発行『山下長治郎歌集』(制作シャローム工房)をまとめて刊行した。

 子息一路のところにあったものを最後岩井の手許で保管している。

 そのあとがきに「評伝」を記し、彼の生涯を覚えた。

 手に取ってみるとよい記念である。「笠原、岩井両先生へ」「用多きなかにも急ぎまいられしみこころしみてうれしかりけり」という歌がある。


 神戸での経験で語らねばならない事は1995年1月17日(火)、阪神淡路大震災に遭遇したことである。

 午前5時46分「暗闇の、深い地底から、地鳴りを立てて押し寄せ、噴き出して来る衝撃」。(『地の基震い動く時 ―阪神淡路大震災と教会』岩井健作、コイノニア社 2005)

 兵庫教区 阪神大震災対策委員長という役目で、本当によく飛び回った。

 拙著はその一つの記録である。

 ユニークな思想で発想し行動する菅澤邦明(西宮公同教会)とよくつきあったことを思い出す。

 彼は教団の教師試験を拒否していたので「牧師」とは呼べなかった。

 彼から学ぶべきことは実に多かった。

 今年(2018年)連れ合いの順子さんが幼児教育の研修会に軽井沢に来た折り、高崎の新生会まで足を伸ばして訪ねてくれた。


 神戸での思い出の中にはもう一つパイプオルガンの導入がある。

 これは1981年の献金に端を発し、阪神淡路大震災の翌月(1995年2月)に匿名の多額の献金があり、更に教会員に呼びかけ、募金を重ね、2000年11月「辻オルガン工房」から辻宏建造によるオルガンが導入された。

 病める都市の癒やしとなった。

 『創立140周年記念誌』(日本基督教団神戸教会 2014)に「パイプオルガンの建設」という項目があり、記録されている。


 2002年、神戸教会では24年間牧会・宣教に携わった。

 大きな意味ですべきことは終わったとの思いがあった。

 年齢も70歳となった。

 適当な後継者がいれば、辞任したいとの思いがあった。

 牧会での溢子の負担も大きかった。

 丁度その折り、溢子の両親が住んでいた鎌倉の家が空き家になっていた。

 「いっちゃんと健作さんは家なき子だから、鎌倉の家に住んだらよい」との小林の母・綾の言葉だった。

 これは大きな力だった。

 後任は、教会が今までの伝道師・副牧師の中から交渉するであろうからまず心配はなかった。

 結局、鎌倉恩寵教会の牧師・菅根信彦に交渉し、菅根も「油の載った時期」でもあったが鎌倉が受諾してくれた。

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