教会の風景(1)

岐阜・幼少期(農民福音学校)

 自分史の第1の部分「幼少期」のことは、子供の頃、親から聞き及んでいた記憶を辿りたい。

 私の父、岩井文男は、日本組合甘楽(かんら)教会(群馬県富岡市)で受洗している。

 父は同志社の法学部を卒業して三井銀行に就職したので、初めは銀行員であった。

 ところが賀川豊彦の伝道集会に参加して、賀川の話にいたく感動して、大手の三井銀行を辞めてしまった。

 いわば世間の出世コースを、惜しみなく離れて、岐阜県加茂郡加茂野村駅前で「農民福音学校」という形の農村伝道を始めた。

 賀川の支援者に平田という医者がいて、自分の郷里に伝道をして欲しい、資金提供をするので伝道をする人を送って欲しい、という要請を賀川はかねてより受けていた。

 それに応じてのことだった。

 すでに子供が一人いるというのに、行き先の事も考えずに、賀川について行く人生の転換は、母をさぞ驚かせ、また苦労をさせたと思う。

 その岐阜で次男として私が生まれた。1933年(昭和8年)である。

 母は、ただ信仰がしっかりしている人を、自分の結婚相手に選びたいというだけで、自分の叔父・松井八郎の世話を信じて結婚した。

 松井八郎と父岩井文男は富岡中学の同級生だった。

 銀行員から一介の伝道者、しかも開拓自給の農村伝道者になったので、母は予期しない道を歩んで、父と苦楽を共にした。

 父は群馬県北甘楽郡高瀬村の農家の岩井角太郎の次男であった。

 男二人、女五人の次男であった。

 角太郎は大酒飲みでなかなか酒が止められなかったが、富岡の甘楽教会に行って洗礼を受けたことで、ぴたりと断酒が出来たという。

 長男の宇三郎には家の田畑を継がせ、次男は尊敬する新島先生の学校に出すと言って、同志社の予科から法学部に学ばせ、その時代父は家からの仕送りの学資で学んだ。

 父は、実際に伝道にたずさわってみて、やはり神学校で学ばないと駄目だと自分で感じたのであろう。

 再び京都にもどり、同志社神学部に再入学した時は、母は宣教師の家でメイド(家事手伝い)をして、生活を支えたと聞かされた。

 父が牧師の正式の資格が取れたのは、子供を3人抱えた時だったという。

 世間一般ではもう中堅の働きどころの時代だ。

 それから東京での組合教会の開拓伝道にたずさわった。

 なお、父の思想と生涯については『敬虔なるリベラリスト 岩井文男の思想と生涯』(新島学園女子短期大学新島文化研究所編、新教出版社 1984年)に纏められている。

 私が小学校に上がる前の経験であるが、米びつの底に、米がなくなって思案している母の姿を覚えている。

 傍らにいた子供の私が「お米屋さんに行って買ってきたらいいのに」と言ったら、「お家にお金あったらね」と言っていた母の姿が、この歳になっても思い起こされる。

 その晩は何を食べたかは覚えていないが、時折さつまいもの蒸したものを一切れずつ、みんなで分けて食べた食事の記憶がある。

 戦時中ということもあった。

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