教会の風景(3)

東京・幼稚園のホールの教会(日本組合永福町教会)
岐阜・田舎の開拓農家の教会(日本基督教団 坂祝教会)


東京・幼稚園のホールの教会(日本組合永福町教会)

 小学校2年の時、組合教会の開拓伝道地が急遽、杉並区永福町の帝都幼稚園に変わった。

 持ち主が教会関係者(札幌の谷口種苗問屋)で、売りに出したらしい。

 その事情を私は知らない。

 渋谷教会は永福町教会として新しい出発をした。

 渋谷の常磐松小学校へは続けて通った。

 1年から4年まで受け持ちは教師清水利雄であった。度のきつい黒縁のメガネをかけた「ねちっこい」教師であった。

 いつも級長をするように選ばれたが、僕はあまりよくあしらわれなかった。

 家は急に広いところに移って、幼稚園が終わったら園庭や保育室で遊ぶのが楽しみだった。

 主任は稲沢・木田教諭で、牧師の息子たちが遊ぶことに余りやかましいことは言われなかった。

 そこでの日曜学校の友だちには、隣の谷口正弘、そしてその従兄に当たる田中文雄がいた。

 その父親は画家・田中忠雄で、兵庫中学で画家・小磯良平の一級上だったということは後々知った。

 大平洋戦争中であって、夜は灯火管制で外に光が漏れないようにと隣組の役員がやかましかった。

 戦時体制で隣組がいわば国家組織の末端の役目を果たしていた。

 食糧事情は悪かった。

 親は育ち盛りの男の子3人を抱えて苦労したことであろう。

 戦時体制で食料は配給だったが、「米」などの穀類の代わりに、いろいろ配給があった。

 学校は暫く永福町から帝都線(現在の井の頭線)で、渋谷の常磐松小学校まで通っていた。

 学校では地域毎に通学の分団を作っていたが、電車通学者は「区域外分団」だった。

 5年生の時、近くの学校ということで世田谷の松澤小学校に転校した。

 多分役所からの指示があったのだろう、ここでも3学期の級長に選ばれた。

 戦争が厳しくなり、子供は疎開することになったので、一度父の郷里の群馬県北甘楽郡高瀬村の祖父岩井角太郎のもとに弟勇児と縁故疎開で送られた。

 田舎の農家の経験は後に振り返ればよい経験だったが、伯父岩井宇三郎夫妻方の従兄昭平にとって「東京の疎開」(僕)は穀潰しでしかなく、いわゆるいじめにあった。

 様子を見に来た父に、どうしても東京に帰してくれとせっついて、父が従兄をたしなめたことが原因で、父兄弟の口論になった。

 結局、子供の心情を思い、父の決断から僕らは東京に帰ることになった。

 松澤小学校に転校して東京に戻ったが、子供は全部疎開ということだった。

 集団疎開が急速に進んでいたが、その時、肋膜炎を患った僕は、空襲警報の時は押し入れに寝ていた。

 回復すると、しばらく室田(むろた)の父の姉夫婦、清水治郎・まつの家(図らずも現在新生会の住所は室田である、現在の当主は孫の隆雄・英子で共に安中教会員である)の離れの部屋に一時疎開し、そこから新潟の柏崎の近く、松澤小学校の疎開地・西照寺(新潟県柏崎市)に父に連れられて移った。

 敗戦間際の7月の台風の後であった。

 8月6日の「特殊爆弾」(原爆)のこと、15日の天皇の「終戦」の詔勅は新潟のお寺で聞いた。

 ラジオの雑音があってよく聞き取れなかった。

 引率の教師の中には由良や脇坂など自由主義者の教師がいて、敗戦を「よかった」と言ってくれた。これにはほっとした。

 その後、高瀬の教師に会ったが、「岩井、悔しいね」との言葉とは対照的だった。


田舎の開拓農家の教会(日本基督教団 坂祝教会)

 敗戦後の1946(昭和21)年10月に、岐阜に引っ越すことになった。

 加茂郡坂祝(さかほぎ)村黒岩1412という地であった。

 坂祝時代である。

 父親が農村伝道に再度就くことになった。

 これは兼松澤一が自分で開墾した3千坪の土地を献げるので、農村伝道をする人を送って欲しいとの要請に基づくものであった。

 父は賀川豊彦に相談したようだ。

 「岩井君、君が行っては駄目だ」ということだったらしいが、他に人はなく、元々農村伝道の気持ちがあったのであろう。

 一家を挙げて岐阜に移り住む事になった。

 中学は都立10中から岐阜高校併設中学(旧岐阜1中)に転校した。

 通学には、家から高山線坂祝駅までは約4キロ(約1里)あった。

 歩いて50分、走っても40分はかかった。

 そのころ、家では戦勝国アメリカの教会から敗戦の困窮のさなかにあった戦後の日本の教会を応援するといって、農村教会には山羊が贈られてきた。

 我が家では山羊の飼育係りは僕になったので、学校に行く前に草刈りをして、2頭の山羊に与えねばならなかった。

 山羊の種類はザーネンとトッケンブルグだった。

 朝食を台所でかき込んで、母に弁当を作ってもらい、毎朝、駅まで走った。

 山道を抜けて線路の脇を走りに走っても汽車が追い越してゆき、発車し始めた汽車を線路からホームに入り追いかけてやっと飛び乗るという際どいことを時々やった。

 何人かそんな通勤者・通学生がいた。

 時には駅長にたしなめられた。

 岐阜中は戦災で鉄筋の焼け跡の青空校舎だったが、暫くして占領軍アメリカ建設のコンセントハットの仮設校舎に変わった。

 成績優秀な二宮、真鍋などと友だちになった。

 図工の教師小木曽に「お前の絵は構図がいい、美術学校に進まないか」と勧められた。

 高山線通いでは和田祐之がいた。彼は坂祝教会に通ってきた。同期の黒田成子が教会に来ていたので、彼女が目当てだったようだ。黒田はまだ岐阜中に通っていた兄岩井要が目当てだったらしい。和田は加茂高校から、現役で東大に入った秀才であった。建設省で役人をしていたが、人生も晩年になって、明治学院教会の礼拝にも来てくれた。亡くなった時の通知は新生会で受け、夫人順子に悔やみの手紙を書いたら喜んでくれた。長い関わりがあった人だ。


 中学3年の時、兄と一緒に同信伝道会の高校生献身者キャンプに参加した。

 それが神学校に行くきっかけになった。

 高校は加茂高校だった。旧加茂農林が学制変更で普通科も併設した学校で、家から8キロあり、初めは歩いて通ったが、途中からは中古自転車を買った。パンクの修理まで自分でやった。

 高校では当時は戦後民主主議の徹底化で、生徒会が熱心に指導された。戦後の占領軍による教育改革でもあった。

 2年の時は生徒会長をやった。3年は受験の備えをした。


 家は自給伝道なので、農作業の手伝いには励んだ。

 両親はよく頑張っていた。教会員・栗山八十吉から蜜蜂5箱を貸してもらい、その飼育を教えてもらい学資を稼いだ。

 当時の蜂蜜は高値がついた。蜜蜂の思い出も数々ある。蜜蜂は季節で花を追って移動しなければならない。春のレンゲは自宅で大丈夫だったが、夏は柿や栃の花を追って蜂屋村や白川町まで持っていって農家に置かせてもらった。農家も果樹園の受粉になるということで、好意的に対応してもらえた。

 夜、自転車の荷台に乗せて運ぶのは容易ではなかった。あるとき入り口の釘が緩んで蜂がべっとり背中についたときはびっくりした。燻煙器で蜂を麻痺させて落としたときなどもあった。思い出の一つである。蜜蜂は大学進学時には返却した。

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