都市の郊外の教会(川和教会)
大学の中の教会(明治学院教会)
都市の郊外の教会(川和教会/神奈川)
岩井が神戸教会を辞めて鎌倉に移るという情報は「同信会(主に同志社出身の牧師親睦会)情報屋」人事の上林(かんばやし)順一郎(元早稲田教会牧師)が聞きつけ、彼は葡萄酒一本をぶら下げて、東京からやってきて、鎌倉に住むのなら某教会の代務者をやってくれんか、ということで、引き受けたのが、横浜の川和教会(横浜市都筑区)だった。
つながりは内田昌宏が上林と同じ伊丹教会の出身ということであった。
2年間の牧会をして同信会人事で兼清(かねきよ)啓司に代わった。
斉藤正子は書道の達人で、記念に「神のなさることは時にかなって美しい」という書を贈ってもらい、ここ新生会の我々の部屋に額がかかっている。
川和教会は寺田信太郎の両親が開拓した教会である。
その設立になる川和保育園の園長寺田信太郎は保育界ではかなりユニークな名の通った保育者だった。
『ふってもはれても 川和保育園・園庭での日々と113の「つぶやき」』(寺田信太郎執筆、宮原洋一執筆・写真、編者 川和保育園、新評論 2014)そこには「子供の力を信じ、保育者の力を信じる」という思想が流れている。
鎌倉の家は小林の両親が建てたものであった。父小林幸治氏の趣味もあって、庭に自然石を活かした池があった。鯉が飼われていた。
土地は次男の正樹のものであった。家賃・地代なしで住まわせてもらった。
牧師舘でない住宅に住まうのは人生初めてのことであった。とても気楽であった。
結局2002年から新生会に移った2015年まで13年間住まうことになった。
隣りの家は小林の長男一家・小林道彦が居住していた。
東京YMCAで総主事を務めていた。
我々が2015年に鎌倉から新生会に移った後、暫くして道彦家族も川崎の老人向け住宅を終の住み家として移ったと聞いた。
鎌倉では何かのきっかけで、随筆家でもあり市民運動を幅広く色々やっている大船の井上節子と知り合いになった。
酒井胃腸科クリニックの医師・酒井太郎は元々先代が銭湯の家であったことから「震災銭湯を作る会」を立ち上げ、僕はその代表に祭り上げられて、市民運動を展開した。
これは酒井の様々な分野での発言の「発信の場」となった。
鎌倉での地元に根ざした交流は、鎌倉の生活を豊かにしたと思う。
大船の銭湯「ひばり湯」の当主小野田将夫などとも出会った。
その広がりは銭湯組合の人たちとの出会いであった。
銭湯経営の苦労などを知った。脱衣場、浴槽の掃除の大変であること、また組合の中には燃料を薪で沸かしている銭湯もあることを知った。ほとんどは重油ボイラーであった。家屋の廃材などで、業者が無料で運んでくれるらしかった。廃材を棄てると費用がかかるので、風呂屋に持ってくるとのことであった。火の番の付き切りの釜炊きは、昔の家庭風呂を思い起こさせた。子どもの頃は皆薪風呂であった。小学生も高学年になった永福町の家の頃は、僕は風呂当番でよく風呂沸かしをした。
大学の中の教会(明治学院教会)
教会は、川和の役目が終わった頃、また上林がきて次の教会の応援を頼むということになった。
川和ほど遠くない、とのことであった。
それは明治学院教会(横浜市戸塚区)であった。学院付き牧師(チャプレン)の金井創(はじめ)が戸塚校舎の兼任をすることが出来なくなり、東京の白金校舎の選任になるという事情があった。
明治学院教会は戸塚校舎のチャペルで礼拝を守っていた。
礼拝は20名足らずであったが、学生が2、3百は入る程の大きさがあった。
鎌倉の家からは、朝比奈から横横(横浜横須賀道路)に入り、戸塚で降りるのが道順であった。
説教要旨をプリントして礼拝当日に配布したことで、喜んでくださった方がいる。
徳永創の娘ゆうは2歳の女の子であったが、亡くなり自宅のマンションで葬儀をした。
渡辺寛は広島流川教会にいたとき広島大学の助手をしていた。教会のわりと近くに住んでいて、その時は日立の研究員だった。
カンバーランドの教会員だった筒井啓子は説教に感動してくれて明治学院教会に転会してくれた。
明治学院大学の教授・永野茂洋・夫人治子も転会をして、教会は賑やかになった。永野茂洋は後に明治学院大学の副学長を務めている。新生会の当地にも夫妻と筒井啓子とで訪ねて下さった。
(⏪ 教会の風景)