古都、京都の教会(日本基督教団 京都教会)
大学に進学するにも家からの学資は期待できない。
同志社の神学部に行けば学費については牧師の子弟は授業料を奨学金でまかなってくれる、という情報をどこで聞いたのであろうか。
多分、父親から何かの折に聞いたのだと思う。
父親はどういう関係か、友人であった南大阪の牧師・大下(おおしも)角一(後、同志社大学神学部長・大学長)を通して聞いたのだと思う。
大下は学生たちから通称「おやじ」と呼ばれていた。
『オヤジ ― 大下角一、裸像の挑発者』(大下角一文集刊行会 1994)が出版されている。(同書所収「自由人にして野人」岩井健作)
父が農村伝道をしているとのことで、ハワイの篤志家の奨学金を特別に付けてくれた。
それは寮などの生活費になった。
御礼の手紙を書いておけ、というので初めて、英文で手紙を書いた。
京都では水谷かず一家に世話になった。
上京区富小路一条下に住んでおられた。
長女の”のり”、三女の”秀”がよく面倒をみてくれた。
一家は父の渋谷教会以来の交わりである。
のりは音楽の教師で、僕も小さい時にオルガンをならった。
父をよく知っている同志社高校の校長の世話で大学1年から家庭教師のアルバイトをした。
その家庭で正月にご馳走になり「先生、ごしゅは如何ですか?」と言われたが、意味が分からず「はい」と返事をしたら、お酒が出てきたので、頂いた。
後で、それが校長に通じて「神学生が酒を飲んだらいかん!」とたしなめられた。
酒の味を覚えたのは神学部の寮であった。みんな密かに飲んでいた。
「俺は飲まない」と言ったら、「岩井、酒飲まんで、どうやって伝道するのか!」が同級生の言葉だった。
飲んだら「こんなにうまいものはない」と思った。
以来、酒は晩年まで飲み続けた。
岩井は底なしだから飲ましたら損をするなどとも言われた。
父方祖父、岩井角太郎の体質が伝わっていたのであろう。
卒業論文は新約聖書学の指導教授・遠藤彰の下で書いた。
「エペソ書の教会論 ―その真理契機と体得契機」。
教会の共同性が「夫と妻の関係」に類比されているエペソ書4章を扱ったものだった。
その年度の修士論文としては評価が一番高かった。
(⏪ 教会の風景)