自由人にして野人

『オヤジ 大下角一 裸像の挑発者』(大下角一文集刊行会 1994)所収

どういうわけか中学三年のとき、もぐりで「高校生献身者キャンプ」に参加した時だったと思う。父(岩井文男)の計らいで、南大阪の牧師館に一泊させていただいたことがある。忙しく動き、大きな声を狭い牧師館に鳴り響かせていたのが、「オヤジ」との初対面だった。その後何となく神学校行きの”宣言” なるものをしてしまった。岐阜の田舎で学力も低かろうとの配慮で、旧制高理科系出身のF神学生を”夏期伝道”と称して派遣、同志社への進学に細やかな道備えをして下さったのも、今から考えれば「オヤジ」だった。神学校入学時、授業料は奨学金を与えられた。これは「教会の教職子弟」ということだった。 しかし家庭からの仕送りのないまま、育英会奨学金とアルバイトが生活の基盤だったため、 無理がたたって栄養失調(その頃ほとんどがそうだった)から脚気になった。ある日、「オヤジ」から呼び出された。「アルバイトはいくつしているのか」と聞かれ、乱暴に「少なくしろ」といわれた。ハワイの篤志家の奨学金を廻すから、英文で礼を書いておけ、とのことだった。今から考えるとその「親心」でもう少し勉強をしておけばよかったと思うが、 体力に余裕ができたら、社会派に加わって、破防法反対運動などをやった。特にたしなめられたことは無かった。

三年の時、岩倉に新・壮図寮ができて、此春寮から移った。春休み、早めに留守番をかねて開寮以前に移り住んだ。誰かを案内してやってきた「オヤジ」が、庭に植樹されたひまらや杉に蓑虫がついているというので、大声で呼び出され、よく手入れをし、掃除をしておけとどなられた。何故蓑虫がついていていけないのか今もって分からない。新築の寮から学生はアルバイトなどに出かけるのに、自転車を使うものがいた。「オヤジ」来寮視察の折、時を逃さず、屋根付自転車置場設置を”陳情”した。言下に余裕はないと叱られた。 二、三日すると大工が来て作業をしている。「何か」と聞けば「自転車置場」だという。こういうところは 「オヤジ」の「オヤジ」たるところである。

講義もかなり乱暴だった。いわゆる『説教学』。学生が当番で説教実習をすると、「A 、どう思う」「B 、どう思う」と二、三意見を聞き「プロポジッションがはっきりしていない」 などというと、「オレもそう思う。こんな説教では教会で飯が食えるか」などというようなことばがボンボン飛び出したものだ。恐らく釈義・構成・論旨・発声など指導があったのだと思うのだが、恥ずかしながら覚えていない。

神戸教会で鈴木浩二牧師の葬儀があった。四国の旅先から参加した「オヤジ」は例のコバルト系の背広で、黒一色の式場で弔辞に立った。服装など一切気にかけない気風がさわやかな思い出にある。「鈴木先生は几帳面な人であった。戦争中、六尺の晒が町内に配給になった。町内の世話役だった先生はそれを人数分に切って分けた。役に立ったかどうかは 知らんが」。そこで会場はどよめき笑った。「切らなければ褌として役立っただろう」とまでは言わなかったと思うが、鈴木先生の人柄と共に、「オヤジ」の人柄が深く印象に残っている。警職法反対だったか破防法反対だったか忘れたが、デモか何かで誰かがパクられた時も、公安委員をしていた「オヤジ」がぶつぶつ言いながらも、結局は警察へ声をかけ釈 放へと動いたという事も聞いた。学生を大きくかばう行動的スケールの大きさが恩われる。

自由人にして公職あり、野人にして大学に生き、人情家にして奔放、学問を講じてなお牧会者、その閥達な笑顔は永遠にわれらのうちにある。「日基(長老派)の連中が、天国で大下おまえも来たのか、と驚くさ」そんなジョークで、教義主義者(ドグマティスト)たちを笑いとばしていた。「組合教会人」がなつかしい。

 

(サイト補足)大下角一 同志社大学神学部教授、学部長、学長を歴任。
シカゴ神学校卒、1962年死去。