教会の風景(6)

旧海軍の軍港のあった教会(呉山手教会)

 呉山手教会は、上亨牧師の子供が病気になり、辞任後1年間無牧であったので、さすがに牧師館は荒れていた。

 まず、牧師館の玄関の前の草取りから始めた。

 そして会員の宅を一軒一軒、とにかく全部廻ることにした。

 まず訪問から始めた。

 牧師館前の棕櫚竹(しゅろちく)が枯れそうになっていたので、根の周りを掘り起こし水をやって何とか回復させた。

 これは鉢分けして、岩国、神戸、鎌倉、と次々と増やし、遂に現在の高崎・新生会まで持ってきてベランダに、割と小さめな鉢植えとしておいてある。

 各地の思い出を共にしてきた棕櫚竹である。

 呉山手教会は元々「日本基督教会 呉中通教会」といって日本基督教会、いわゆる長老派の教会である。

 赤岩(栄)贔屓(ひいき)の大古常雄や福井よし子などがいた関係から「岩井君の推薦をした」ということで招聘を受けたが、赤岩の影響を懸念している笠そよは、広島女学院院長で前任地の広島流川教会の会員であった広瀬ハマ子に問い合わせたようだ。

 広瀬からも文句のない返事があり、呉山手の「二つの流れ」から歓迎されて赴任する事になった。


 笠潤一郎は呉共済病院の院長だった。

 どちらの傾向にも偏らないように注意を払って牧会に取り組んだ。

 溢子は若いし、娘・笠悦子と同年なので、すこぶる親しくする事になった。

 1962年7月29日に娘・容子が誕生した。

 また、笠そよは、息子の啓一が東京の大学教師で左翼運動に専念していたこともあり、僕が息子のように見えたのか、大事にされた。


 幼稚園長をするのは初めての経験だった。

 が、何とか5年間無事にやりおおせた。

 バラックに近い戦後の園舎だったが、僕の次の牧師・筒井洋一郎が園舎の建て替えの仕事をやった。

 しかも設計を兄・岩井要に依頼したとは驚きであった。


 呉では持ち前の社会的関心から「呉キリスト者平和の会」を立ち上げた。

 その名をバックに呉原水爆禁止協議会に参加した。

 内田康一、福田正隆、木岡小夜子など若手の青年が洗礼を受け教会に加わったことは大きな力であった。

 内田は養鶏場をやっていた。福田は日立造船に勤務。木岡は呉YWCAの職員であった。

 丁度5年が過ぎて油がのってきた頃のことである。

 西片町教会(東京教区)の牧師・鈴木正久が思いがけず教団総会で教団議長に選挙された。

 教団がいわゆる「戦争責任告白」と「体質改善」路線に舵を切ったことの象徴であった。

 鈴木正久は教団総幹事に高倉徹(岩国教会牧師)を呼ぶことにした。

 さて、岩国の後任をどうするか、となったとき、大方の噂では、Y.S牧師が予想された。

 東京神学大学の出身ではあるし、なかなかの俊才であり、牧会歴も十分あった。

 しかし、岩国の高倉徹牧師がどういうわけか「岩井」に決めて、呉に交渉にきた。

 僕にとっては思いがけない出来事であった。

 そのころ岩国教会から分離独立をした岩国東教会には杉原助(たすく)牧師が居た。

 杉原は赤岩の門下であり、赤岩には一番近い思想を持っていた。

 戦時中、海軍兵学校で軍国日本のエリートを目指していたが、敗戦で価値観が変わって、キリスト教に入信したという経緯を持っていた。

 岡山県津山の出身であった。

 実務も、論理もすぐれ、語学も実によく出来た。

 後にブルトマンの著作の翻訳出版もした(『ヨハネの福音書』R.ブルトマン、杉原助訳、日本基督教団出版局 2005)。

 杉原も岩井とはうまが合ったのか、キリスト者平和の会などの枠組みで、一緒に活動する事が多くあった。

 杉原はその後、広島南部教会の招聘を受け広島を舞台に活動をした。

 晩年、設立に自ら関わった原爆被爆者のための老人ホーム「清鈴園」で過ごした。

 葬儀は東京の代々木上原教会で行われ、僕も出席した。

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