生きて働く教会 ー覚え書きー(1964 広島教会・修養会主題解説)

広島教会月報、1964年8月発行
(健作さん31歳、牧会6年、呉山手教会牧師5年目)

 与えられたテーマについて組織立てて論述する余裕を持っていませんので思いつくままに幾つかの視点を覚え書きすることでお許し願いたいと思います。

1.開拓期を生きる教会としての感覚を持つことの大切さ

 広島教会には80年に近い伝統があり、特に旧日本基督教会の教理と信仰を大切にし、信仰が敬虔主義に流れず、どこまでも客観的教理主義に依拠したというあたり賜物だと思います。

 しかし、全体として日本の教会は、若い教会であり、神学も形態も移入されたものを消化し切っていないものの方が多いと思いますので、むしろこれから形成すべき課題の方にアクセントを置いてゆくことが大切だと思います。

 渡辺信夫氏が「宗教改革から近代日本の教会への伝統の流れを肯定的に考えることが出来ない」(『教会論入門』新教出版社 1963、p.172)と言っている程に伝統は少ないのです。

 まして2000年もの歴史を持つヨーロッパに於いて、今日ほど教会の革新が論じられている時はないことを知る時、私たちは少々の殻や自己のぬくもりに拘らずに、また失敗を恐れずに、大胆に教会形成を模索すべきだと思います。

 教会の根拠であるイエス・キリストへの追従の真剣さと大胆さに於いてこそ、教会はまず生きていると言えないでしょうか。


2.教会論に於ける主体的側面の大切さ

 カルヴィン神学に於いては、教会論に於いても、神の主権とその経綸という客観的側面が重要視されますが、教会には本来我々が主体的に参与して初めて生きて働くという我々の側の主体的側面があります。

 例えば、エペソ書の教会論などを調べてみますと、キリストはかしらとして教会に対して客観的な主権者でありながら、教会はキリストの欠くべからざるもの(補うもの:エペソ1:23)として表現されていますし、単に客体的なものとしてではなく、一つの主体として記されています。

 また、クレーマーは、教会の存在と機能を切り離してはならないと言っています。

 その機能とは「仕えること(ディアコニア)」であり固有な意味でこの仕えるための主体を明確にするとき、教会は生きて働いており、観念の客観性から脱することが出来ます。

 そこで初めて、教会のリアリティが成り立つのです。


3.戦争中の教会の挫折を否定的な遺産として踏まえること

 戦争中の教会について語るのは大変苦しいことですが、安藤肇氏が『あるキリスト者の戦争体験』(日本YMCA同盟出版 1963)で指摘しているとおり、戦争中の教会は無自覚的に自己保存の姿勢をたどり、教会本来の「地の塩」としての機能を果たし得ませんでした。

 それゆえに、生きて働くというリアリティを失いました。

 私たちが生きて働く教会を追求するとき、あの挫折を否定的な遺産としてどう克服するかという課題を抜きにしては有効な手がかりはないと言っても過言ではないと思います。

 教団が護憲を声明し、安保体制に批判的姿勢をとり、社会規模において福音が証しされる倫理を生み出そうとしていることは、皆この否定的遺産の克服への努力と言えます。


4.信徒を養う教会からキリスト者を”ととのえる”教会への転換

 今まで日本の教会では、洗礼を受けるということとキリストにより使命を負って現実を生きることとが十分に結びつかないままで教会生活が進行していたようです。

「義認」の強調がいつの間にか「聖化」と切り離されて、「義認」が観念化され単なる教条的論理となって、元来それが内包している「恵みの呼びかけとしての性格」が失われるために、信仰は全く受動的なものとなって、日々の生活で時代の現実的な困難を負いそれを変革して生きる主体(己が十字架を負う主体)が確立しなくても、平気で教会生活と称するものが続けられている場合すら出てきてしまっています。

 そして、このような受動的教会生活(または教会プログラム生活)者が信徒として養われてきました。

 しかし、全生活を恵みの元に生き抜く者が、本来の意味での「神の民(信徒)」です。

 全生活を主体的に生き抜く者、そしてその生きる姿勢がキリストを証ししているという意味で、「キリスト者」と呼んだ方が相応しいと思います。

「信徒」という言葉が”教会内逃げ込み主義”のニュアンスを漂わせているとしたら、そういう表現をやめたほうがよい、と私は思っています。

 そして、キリスト者であることを”ととのえる”(エペソ 4:12)ことが教会の大切な働きであります。


5.講壇と生活とのフィードバック

 福音の告知はいい加減に聞かれたり観念的に受けとられてよいものではなく、告知の前に立つ人の全生活領域で、生きる神の言葉として聞き留められねばなりません。

 本当に聞き取られているかどうかを互いの魂に対して配慮(励まし、慰め、祈り)する場が教会全体の拡がりで欲しいものです。

 つまり、ケリュグマ(告知)の線上で、交わりがなされ、説教(告知)を軸にして教会の活動がなされるべきです。

 そして、交わり、活動の質、一人一人の生活での戦いが、講壇まで跳ね返っていくルートを正しく作り上げることが出来たら、教会は生きて働いている証拠です。

 そのためには、交わりの拠点を担う教会役員が養われる必要があると思います。

(1964.8.19)

(サイト記)本稿は、日本基督教団 戦争責任告白(1967年3月)より3年前のテキストである。