祈祷会感話 岩井溢子(廣島流川、呉山手編)

2002年3月20日 神戸教会祈祷会

神戸教會々報 No.165 所収、2002.4.7

 只今仮牧師館として住まわせて戴いていますマンションからは、神戸港が一望でき、東のビルの間から顔を出す太陽の登っていく様は、時の流れの速さを否応なく認識させてくれます。

 あと二週間余りでこの立場を離れるに当たって、今晩は44年間の歩みを振り返らざるを得ません。暫く大切なお時間を戴いて、その間に関わった多くの教会に連なる信徒の方々の信仰に育てられ、支えられ、そして何よりも神様の愛と赦しの中で今日まで過ごし得た日々を語らせて戴きたいと存じます。

 振り返りますと、44年前(1958年)の4月に岩井は学校の命令で、メソジストの流れを汲む廣島流川教会の伝道師として単身赴任いたしました。その時私は宮崎教会の附属共愛幼稚園に助教諭として働いておりました。と申しますのも、日本の教会は、多くが附属の幼稚園を持っているので、少しでも経験していれば何かの役に立つかもしれませんよ、と当時の組合系の宮崎教会の牧師が誘って下さったからでした。幸か不幸かその言葉は的中して、赴任した教会全てに附属の幼稚園がございました。直接保育に携わることは岩国幼稚園の3年間のみでしたが、沢山の子どもたちに出会わせて戴きました。

 1958年の8月1日に京都教会で結婚式を挙げていただき、8月5日に廣島の新居、それは幼稚園の中二階で、トイレもお風呂もなく、天井からはお料理教室の水が漏れてくるような本当に粗末なものでした。先日、神戸栄光教会の相浦牧師ご夫妻とお話をしていて、流川教会の話題になり、あのようなところから出発したから、どこへ行っても、感謝、感謝でしたね、と話したことでした。因みに相浦牧師は流川教会の私共より二代後の伝道師でした。

 戦後13年の廣島は、まだ原爆の傷跡が生々しく、6日の原爆記念式典は、悲しみと平和への願いに満ちたもので、北海道で生まれ育ち、九州・東京で青春時代を過ごした私は、原爆のむごさにあまりにも無関心であったことを、深く反省いたしました。教会には原爆の被害に遭われた方が沢山いらっしゃり、悲しみがどんなに深いものであるか、若くて、家族の死に直面したことのなかった私はその悲しみにどれほど寄り添うことが出来たのだろうかと思うと、申し訳なさで一杯です。

 埴生の宿もわが宿、玉の装いうらやまじ、の歌ではありませんが、屋根裏のわが家には、青年達が何時もたむろして、岩井がこれからのキリスト者の生き方等、熱弁を振るって、ある時など貧しい私たちにとって大切なやかんをガスコンロの上で黒こげにしてしまった思い出も鮮明に甦ってまいります。

 ある日、教会の講壇の前に赤ちゃんが置かれていて

「名前は かなえ、よろしくお願いします」

 と下着と共に書き置きがありました。

 すぐに別の場所の牧師館に住んでいらっしゃる主任の谷本牧師に連絡すると、スクーターで飛んでこられ、

「わしが育てる」

 と驚く我々を尻目に連れて帰られました。牧師には四人のお子様がいらっしゃるのに、凄い方だなー、と敬服致しました。

 翌週の日曜日には教会のロビーに

「かなえちゃんのミルク募金」

 と書かれた箱が置かれ、皆さんが応援なさいました。

 後にかなえちゃんは、どのお子さんよりも身体が大きく成長し、谷本牧師のご入院中から最後まで付き添われたとお聞きして、主に全てをおゆだねする大切さ、そして神様のなさることの大きさを教えられました。

 廣島から海岸沿いに南へ20キロ余りの所に呉という昔軍港だった街があります。そこに呉山手教会という合同前は日本基督教会に属していた教会がありまして、一年以上無牧でした。伝道師という立場の岩井は何度か説教の応援に行かせて戴いたご縁で、招聘を受けました。前の牧師はご病気で辞任されたのですが、双子の赤ちゃんが出産の時の無理が影響したのか二人とも重度の障害をもっていらっしゃり、先生のご病気もあって、教会はすっかり疲弊してしまっていました。ある役員の方の招聘の条件は

「薄給に甘んじて来て戴きたい」

 というお言葉でしたが、A牧師の推薦もあり、招聘をお受けいたしました。岩井も私も教会のために働いて、生活の糧は何とかしようと決心致しました。早速、教会の礼拝堂のベンチに机の代用になる板を取り付け、高校の英語の先生と近所にビラを撒いて、中学生を集め、英語教室を開きました。また、岩井は高等看護学校の講師として、戴く講師料や月謝を全て教会に献金し、そこから謝儀を戴くという生活を続け、その間、精力的に教会の建て直しに励みました。幼稚園もあり、初めての園長としての経験はハラハラの連続でしたが、後の働きに大いに役立ったと思います。

 呉の教会で忘れられないことは、ある日、役員の一人で仕立屋さん(下の写真、一番左)が突然亡くなったとの知らせが入り、耳を疑いました。お元気そのものの方で、岩井のつるしで買った身体に合っていない背広を見て、丹精込めてどこに出ても恥ずかしくない立派な背広を作ってくださったばかりでした。すぐにお宅に駆けつけますと、三人のまだ小学生の男の子を座らせ、奥様が

「神様が今まで私たちを守ってくださったのだから、決して心配しないでがんばりましょう」

 と涙をこらえて言い聞かせていらっしゃいました。私は自分を振り返り、これほどの信仰を持ち合わせているのかどうか、深く反省させられ、また、励まされました。

笠原芳光先生を迎えた伝道集会、呉山手教会

 伝道師の生活から独立して主任に、そして正教師に、そして子供が与えられ、教会の仕事、子育て、更にアルバイト、と今思い返しても25歳という若さで元気だったのだと思います。

 教会には色々な訪問者がありますが、岩井が留守の夜、玄関のベルが鳴り、赤ん坊と二人で寝ていたところに、刑務所から出てきた者だが今晩どこかに寝かせてほしい、と言うのです。私は心臓が破裂しそうに驚き「高熱で寝ているから勘弁して下さい」と懇願してじっと固唾を飲んでいますと、すたすたと足音が遠のいていきました。気の小さな私は子供を抱きながら、神様のお守りを感謝しつつも一睡も出来なかった苦い想い出がございます。

 廣島では二人で自転車で、訪問に、散歩に、と出かけておりましたが、子供が出来てからは、中古のバイクを買って親子三人がバイクにまたがって、教会員宅を訪問致しました。

このバイカーは健作さんではなく、神戸カナディアンスクールの校長先生。

 教会の財政は厳しくても、個人的には本当に良くして戴き、特に教会員の小児科のお医者様は当時は乳幼児の医療費が今のように優遇されていませんでしたので、いつも看護婦さんに目配せして黙って帰して下さいました。牧師の家庭は貧に処する道も、富に処する道も備えられ、必要なものは不思議と与えられました。牧会の中で、必要な時に大切な人材を与えられ、また必要な宝が与えられました。これは今日に至るまで変わることなく、大いなる恵みと感謝しております。マタイ6章25節以下のみ言葉はまことにその通りでございます。

 岩井が牧師になって初めて洗礼を授けた呉山手の信徒の方が今日まで終始教会の無くてはならないご夫妻としてご奉仕くださっていますことは、感謝の外ありません。

 五年間は瞬く間に過ぎ、教会もだんだんに人数も増えてこれからという時に、岩国教会からの招聘が舞い込んできました。その時の高倉牧師が教団の総幹事として当時の教団総会議長・鈴木正久牧師の要請で東京へ赴任されることになり、岩井に白羽の矢が立てられました。教団が改革路線を歩み始めた時で、岩井は岩国教会への使命を感じて招聘をお受けいたしました。その時の呉山手教会の方々のお気持ちは察するに余りがありました。

 主任牧師として初めての地であり、子供が与えられ、若い親子を信仰の先輩の方々が愛情を持って育てて下さった忘れがたい教会で、今でも心に深くお別れの悲しさが秘められております。

(岩国、神戸編に続きます)