信仰の株分け(2000 神戸教會々報 72)

神戸教會々報 No.156 所収、2000.2.6

(健作さん66歳)

正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。 マタイ 3:15


 信仰の伝わり方には、植物が、種子で増えるような増え方と、株で増えるような増え方とがある。

 朝顔は種子で増やす。棕櫚(シュロ)竹などは株分けをする。

「一粒の麦が地に落ちて死んで、多くの実を結ぶ」というように、親しい者の死がイエスを証ししてというのは、「種子型」の入信。もう一方は、子株がで出て新芽が大きくなるという「株型」の増殖。人格的感化で自然に信仰を身に付けたという具合だ。

「株分け」には、思い出がある。呉の教会に赴任した時、牧師館の玄関先に棕櫚竹があって枯れかかっていた。この教会は一年間無牧だった。少し手入れをしたら勢いを取り戻した。岩国に転任する時に、それを鉢にして持って行った。ベトナム戦争の時、忙しくしていて水がきれて葉が萎んでいたら、棕櫚竹が萎れるほど忙しくしてはいけませんぞ、と言ってくださった教会員があって、以来棕櫚竹の勢いと色艶は牧会の写しだとしてきた。

現在高崎のお住まいにある、株分けされた棕櫚(シュロ)竹

「種子型」と「株型」の違いに、私は、聖書の中の「義」の理解がパウロとマタイとで異なることを重ね合わせて見た。

 「義」はディカイオシュネーという単語。新約聖書では、「義」「正義」「神に受け入れられている状態」という意味で使われている。パウロは、手紙の中で、この「義」を自分の信仰思想を示す中心概念として用いている。ローマ 3:21-24。ここでは「神の恵みにより無償で義とされる」ことが、述べられている。罪人である人間が、神の啓示(現れ)であるイエス・キリストの贖いによって、罪を赦されて救われるという信仰である。

 この「信仰義認」の教えは16世紀の宗教改革者マルティン・ルターにより再度鮮明に主張された。「義」は即「神の義」を表している。「神の」というところに力点がある。神と人との関わりの垂直の関係を「救い」として示す。これは私たちの信仰の基礎に据えておかねばならないことである。ところが、同じ新約聖書のマタイでは、この「義」を広義に、人間と人間の関係まで含めて考える。5章20節。

「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して神の国に入ることができない。」

 ここでは義は我々の行いまで含めて、神と人、人と人との関係全体の事柄として考えられている。「行う」と訳されている言葉は、口語訳では「成就する」「満たす」という意味で、我々の行為が用いられて初めて「神の義」は満たされる。イエスに従って行く、小さな一つ一つの営みが、神の義に繋がって、救いを実質のあるものにする、という意味だ。

 イエスの受洗の記事について、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書を比べてみると、マルコ、ルカは簡潔だが、マタイには14節と15節が挿入されている。これは伝承を用いながら、著者がイエスと洗礼者ヨハネとの歴史的関係を重視しつつ一つの主張を持っていることを意味している。

「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(マタイ3:15)

がそれを示している。

 マルコ、ルカでは、洗礼において神の霊が下ってきて、イエスが神の子であることの顕示が強調される。イエスの洗礼の物語は、神と人との垂直の関係に力点を置く。これに対して、マタイは、洗礼者ヨハネとの会話を入れることで、神の事柄を、人と人との水平の関係をも含めて強調する。マタイの「義を行う」というのは株分けをしながら教会を豊かにしていくようなものだと、そんな比喩を感じる。

 マタイは福音書全体を通じ、「義」を編集句の中で7回用いている。成就されるべき神のみ業の全体を地上の信仰生活の、日々の祈りと行いの中に引き込む。

 かつて、幼稚園で子どもと観た映画を思い起こす。倒れてきた樹に角を挟まれた鹿を助けるのに、梃子を使った森の小動物が次々にテコに乗る。リス、ネズミ、カエル。いよいよ狼が近くに来た時、危機一髪で、一匹のアリが木の枝から飛び降りて梃子が動く。

 救いは、考えてもみなかった奇跡であるには違いないが、パウロ的な発想では、あわやという時に猟師が現れて、ズドンと狼をやっつけたというような救済論になるだろう。マタイ的な発想だと、奇跡には違いないが、アリの重さも含めての救いの完成の物語になる。

 寒波のきつい日曜日の朝、まだ礼拝には余程の時間があった。礼拝堂のストーブを早めに、と思いつつドアを開けた。
 椅子に人影がある。この寒さの中で。

「オヤ!」
「イヤ、病院へは朝4時起きで行くのですよ」

 85歳だというのに。
 花隈の坂はきついので三宮からタクシーを使うという。
 この方もれっきとした信仰の二世。株分け型の信仰者だ。
 不思議な力を覚える。

(サイト記)「個人消息」欄より(1999.8.8〜2000.2.2)

7.27:溢子夫人ご母堂 K.A姉死去
8.5: I.K姉 納骨式司式
8.12:E.A姉 納骨式司式
8.13:M.Y姉 葬儀司式
8.15:L .K兄 納骨式司式
9.18:K.S兄 結婚式司式
9.22:S.K兄、S.S姉、S.T兄、S.J兄 納骨式司式
10.4:H.M兄 葬儀司式
11.11:T.M兄 葬儀司式
11.17:K.H兄 葬儀司式
11.21:彦根教会120周年特別礼拝説教担当
11.23:K.T兄 結婚式司式
1.23:K.H兄 納骨式司式

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