祈祷会感話 岩井溢子(岩国、神戸編)

2002年3月20日 神戸教会祈祷会

神戸教會々報 No.165 所収、2002.4.7

廣島流川、呉山手篇


 岩国教会は有名な錦帯橋のすぐ近くにあり、岩国駅周辺の工場や海兵隊の基地近くとは違って、とても静かな場所にございました。お引越しを済ませると、2歳7ヶ月の娘がお家に帰るといって家を飛び出して行ったのには面くらい、後々の語り草になっております。

 子供が成長してくるにつれて、牧師の家庭の生活が子供にとってなかなか厳しいことを感じざるを得なくなりました。食卓が整えられ今から戴こうとしているときに、来訪者があると子供は一人取り残されてしまう。今の若い人はこのあたりは割り切っていらっしゃるかと思いますが、日曜日に行われる運動会には朝から行ったことがありませんでした。娘は足が速く、いつもリレーの選手でしたので、最後のリレーにだけは礼拝後に走って行って、やっと応援するというようなことでした。

 時々、カトリックの制度は、神父は独身で身の回りのお世話は他人にして戴く、家庭がなければ充分仕事に打ち込めて家族を犠牲にすることもないし、と思った時期がございました。

 1970年代の岩国はベトナム反戦運動の真っ只中にあって、騒然としていました。

 昼間は幼稚園の仕事、教会員のお見舞いや訪問、夜は教会の集会、夜中に平和運動という生活でした。良心的兵役拒否の兵隊を思い返すと教会に泊めたこともございました。度々教会に助けを求めて米兵が訪ねてきたり、アメリカからの反戦運動家をお迎えしたり、ビラまきの若者が捕まりそうになり夜中に牧師館に転がり込んできたり、緊張の日々が続き私はとうとう三週間入院する羽目になりました。

 岩国基地撤去の運動は続けられていましたが、教会員の中には基地の中で働いて生計を立てていらっしゃる方が少なからずおられ、キリスト者として魂まで基地に預けてしまわないように、分かって戴くためには日常の牧会の一つ一つが如何に大切か、いつも祈りつつ神様の導きにより頼んで参りました。

 私共は、岩井が五代目、私が三代目のクリスチャンであることにいささかの誇りを持っておりましたが、岩国ではむしろマイナスであることを知らされました。古い因習の中でキリストに出会い、親の反対の中、隠れるように教会の礼拝に出席して信者になったような方には、牧師夫婦は自分たちの信仰生活の重みを理解出来ないと感じられたと、後になって語って下さいました。「家庭の幸福は諸悪の根源」とは太宰治の言った言葉ですが、古い町での伝道はそのことを充分に肝に銘じておくべきことを教えられました。

 一方、ユーモアをもって牧師をサポートして下さった老婦人を懐かしく思い起こします。80過ぎの姉妹は二人の息子さんを病気で亡くし、一人は重度の障害を持って成人して亡くなり、軍人だったご主人にも病気で先立たれ、お一人で住んでいらっしゃいました。聡明な方で、朝のラジオのドイツ語講座を聞き続け、講師の小塩節先生と仲良しになり、「全国の若い皆さん」で始まっていた放送から「若い」を取らざるを得なくした方でした。基地反対のデモ行進には小柄な身体で何時も歩かれました。

 信仰が骨の髄までしみ通った、牧師家族のために祈り続けて下さった方で、暫く訪問をしないと「お風邪でもひかれましたか?」、「おいしいお菓子の匂いがしませんでしたか?」と、それとなく訪ねてほしいことをほのめかし、ご自分の気づいたこと、教会員の方から耳に入ったことなどをお話し下さり、そのことは牧会の大きな支えでございました。

 岩井は大学4年生と大学院1年生の2年間、この神戸教会に派遣神学生として来させて戴き、高校生の聖書研究を担当していたこと、伝道師は笠原芳光先生で、キャンプの時の様子など、少しアルコールが入ると「同じことを何度も面白おかしく」聞かせられ、お名前は沢山覚えました。

笠原夫妻・岩井夫妻(2012年7月)

 1977年、その神戸教会から招聘があり、あのような大きな、しかも初めての組合教会の伝統の教会に私共のような者が務まるのかどうか、真剣に祈りました。

 招聘委員のお一人の今は亡き山下長治郎さんが

「何の計らいもなく」

 と促して下さり、決心をいたしました。

山下長治郎氏

 しかし、9月に教会に辞任を申し出てから後任が決まらず、後ろ髪をひかれる思いで岩国教会を去りました。このことは後々まで傷として残っております。

 1978年は娘が中学卒業の年で、高校進学のことが気になりましたが、松蔭女子学院の高校に編入することが出来ましたので安心して、娘と私にとっては初めての関西の地、新神戸駅に降り立ちましたのが、24年前のことでした。

神戸初日

 私は赴任前から教会から送って戴いた名簿を眺め、会員の方のお名前を覚えるように努めておりましたので、お会いしてもすぐにどの地域の方かが分かりました。赴任しました8月には、副牧師で頼りにしていました山口収先生が、新しい任地・岡山県の水島教会に行かれました。そして9月には三週間続いてお葬式があり、心身共にクタクタになりました。児玉夫人が気の毒がって、リポビタンDを差し入れて下さいましたが、何度マッサージに通ったことでしょうか。

 神戸教会には創立以来、教会には会堂守の方がいらっしゃり、牧師は離れた所にお家を借りて住んでいらっしゃいましたが、児玉牧師をお迎えした折に初めて教会の敷地内に牧師館が建てられました。今から43年前でした。しかし、会堂守の方は必要だったのでしょう、教会の建物の中に住んでいらしたと聞いております。私共が参りました時には、牧師館のすぐ前の小さな小屋のような所に会堂守として母と娘のお二人が住んでいらっしゃいました。複雑なご事情がある方で、また、足がお悪く階段の登り降りがお辛いご様子でした。私はお仕事はお仕事としてきちんとして戴きたいので、お願いする以上はせめて夏の暑さから解放してあげたいと、教会会計にクーラーを付けて下さるようにお願いして、2年目から付けて戴きました。お掃除よりもお料理がお得意で婦人会の毎週のおうどんは全部彼女が準備をして下さっていました。私の最初の戸惑いは、おうどんの数を決めなければならないことでした。今までは副牧師が決めていたとのこと、不在の今は私が決めるしかありませんでした。また、愛餐会の折にはこれも副牧師が適当に数を決めて当時は婦人会が食事を作っていました。適当な数ですから足りないと朝から一生懸命に働いた方が食べられないことがしばしばで、これには我慢がならず、すぐに「会食申し込み袋」を作って、前もって申し込んで戴くことを習慣にするようにお願いしました。

 会堂守の方の足は年毎にお悪くなり、ご親戚の方とお辞めになりたい旨のお話に来られました。やむを得ないこととお辞めいただきましたが、これからどうしたらよいか、本当に祈りました。そして、近くの卒園生のお母様にご相談に行き、パートでお掃除をして下さる方を紹介して戴きました。

 私は神戸に来て暫くして、咳と微熱に悩まされ、あちこちの病院で診ていただきましたが、特に病名がつくほどでもなく、次第に良くなっていきました。岩国の牧師館は幼稚園の二階にあって、日が燦々と入っていましたが、ここの牧師館は街の中でもあり、昼間から電気をつけなければ薄暗いものですから、身体がその環境に慣れるまでの現象だったのだと分かり、安心いたしました。

 そして、この教会での建物の管理までを含めた勤めを果たすには健康でなければならない、神様に御心ならば健康に過ごさせて下さい、そして教会のために力一杯ご奉仕が出来ますようにと切に祈りました。そして健康のためにと淡路島の五色町にあります断食道場に出かけたりもいたしました。

 岩井は総論はお得意ですが、各論になると苦手で、側にいますとハラハラすることが多く、苦労をいたしました。1979年から同志社の野本先生のお世話で来て戴くようになった伝道師の先生に次々と助けて戴きました。24年間に8人の伝道師に出会わせていただき、それぞれが賜物を発揮して下さいました。私は岩井の欠けを補おうとしゃしゃり出ることが多く、伝道師の先生方には不愉快な思いをさせたことが多々あったことと反省しております。皆さんが牧会に出て下さることが私共の祈りでしたが、3人は学校へ行かれました。それぞれ派遣された場所で良いお働きをなさっておられることは感謝でございます。

岩井牧師・菅根副牧師

 神戸教会の信徒の方のお住まいの範囲は、北は北海道から南は九州、更には外国にと広範囲で、訪問できていないお家がまだまだあり、申し訳なさで一杯でございます。児玉牧師がお辞めになる時に私共に20年いても顔を知らない人がまだいるのですよと漏らしていらっしゃいましたが、24年でも同じことでした。

 ヘブライ人への手紙12章1節「おびただしい証人の群れに囲まれ、重荷や罪をかなぐり捨て、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」に励まされました。

 神戸教会では沢山の方を天にお送りいたしました。お葬儀を司らせていただくことは、牧師に与えられた特権であり、それ故に一人の方の生涯の締めくくりに際して、神様のみ栄が現れるようにと祈り努めてきましたが、このことは大きな、責任の重いことでした。夜中、また朝早くのお電話は受話器を取るのがためらわれました。一旦ご逝去のお知らせを戴きますと、三日間は予定が変更になりました。ご家族の悲しみに寄り添いつつも、最後の葬りの準備を始めなければなりません。式次第を作らねばなりません。愛唱讃美歌を持っていらっしゃる方は良いのですが、こちらで決めなければならないことが多く、私はその方に思いを馳せていますと、不思議と讃美歌が浮かんできて、それを歌っていただくことがしばしばでした。

 讃美歌が子守唄だった私は、悲しいとき、嬉しいとき、辛いときに絶えず讃美歌によって励まされてきたと思います。これからも許されるならば私にできる、讃美歌を通してのご奉仕をして参りたいと願っております。

 岩井も私も他人に色々お願いするのが下手で、自分ができることは自分でしてしまい、お一人お一人の持てる賜物を引き出せなかったことは、牧会者としてまことに不十分であったと皆様に心からお詫びを申し上げます。

 24年間の神戸教会での思い出は語り尽くすには時間が足りません。今日まで大きな愛をもって赦し、お支え下さいました皆様に心から感謝し、ますます皆様と神戸教会の上に神様の祝福が豊かに加えられますように祈りつつ、今晩の感話とさせていただきます。

岩井溢子

(前半の廣島流川、呉山手篇に戻る)