キリストに倣う者《ルカ 18:15-17に寄せて》(2001 礼拝説教・週報・教会創立127周年・教会学校・第1回オルガン演奏会)

2001.4.22、 神戸教会週報、復活節第2主日、教会創立127周年記念
▶️ この日発行された教会報所収「元町通りのキリスト教」
▶️ 同教会報所収「オルガン建造の現場に居合わせて

(牧会43年、神戸教会牧師 23年目、健作さん67歳)

(サイト記)この日の主日礼拝は、教会学校との合同礼拝、奏楽者はペーターさん、礼拝出席者は190名。午後オルガン演奏会の聴衆は376名とある(翌週の週報より)。会堂に新しいパイプオルガンの音が響き渡った主日であり、その時の説教テキスト。いつか音声ファイルを聞いてみたいものです。








ルカ 18:15-17、Ⅰコリント 11:1、説教題「キリストに倣う者」

”わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。”(Ⅰコリント 11:1、新共同訳)

 子供は親の言うことはなかなか聞かないが、親の仕草の真似をする、といいます。

 子育ての教訓です。

”子供が母親のしぐさをまねして成長するように、ある文化は、それをになう人びとが互いに互いをまねあうことによって成り立っているといえる。生き方をまね個性をまね、言葉をまねることは、かなりやさしい。それは意識の部分だからである。それに反し、身振り、しぐさをまねることはそれほどたやすくない。これは、無意識の部分に寄り掛かっているからである。それだけに、よけい、後者の方が変わりにくく、恒常的といえる。”(『しぐさの日本文化』多田道太郎、角川文庫 1996)

「まねをする」ということ一つ取ってみても、子供の可能性に大人はとても及ぶものではありません。

 ここには「福音の生活化」「生活の福音化」の課題が示唆されています。

「神の国はこのような者たちのものである」(ルカ 18:16)とは、含みのある言葉です。


 弟子たちはなぜ人々を叱ったのでしょうか。

”イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」”(ルカ 18:15-17、新共同訳)

 幼な子について弟子たちなりの考えはあったのだと思われます。

 当時のユダヤ教では、律法主義の考え方が支配的でした。神の御心は律法を通して実現する、という考え方です。律法に熟知しそれにふさわしい行いをすることです。そのことが「神の国(支配)」に入る資格でした。

 従って、子供(幼児)はまだ律法を知らず、それを実行する力もないので、神の前では独立した存在ではなく、無価値なものとされてきました。

 弟子たちはイエスに従って来ているわけですから、幼児観において、ユダヤ人一般と同じだったとは思われません。

 いくら鈍い弟子でも、幼な子は救いに値するか、と改まって問われれば、「神の恵みはあまねく及ぶ」と正解をしたに違いありません。

 しかし、具体的場面で不意打ちを喰らった時、無意識のうちにそもそも抱えていた体質が出てしまっているのです。

 例えば、「差別」というものは、ほとんどがそのようなものです。

 意識的ではなくて、後で気がついたら「差別」であったというものが多いと思います。

 その時は「過ち」を認め、許しを乞い、また大きな神の赦しを信じ、同じことを繰り返さなないように、意識を整えていくことが人間関係において柔軟な生き方です。

 子供が大人と異なる特質を持っているとするなら、物事を意識の面よりも、無意識の面でより多くを捉える素質を持っているのでしょう。

 歳をとると、頑固になるといいます。不意打ちを喰らった弟子たちの姿を、他山の石とし、ルカ18章の文脈をもう一度読み返してみたいと存じます。


2001年4月22日、奏楽・第1回 オルガン演奏会: ペーター・プラニアフスキー氏。
溢子さんとオルガニスト瀬尾千絵さん

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