元町通りのキリスト教(2001 神戸教會々報)

神戸教會々報 No.161 所収、2001.4.22

(健作さん67歳、牧会44年目、神戸教会牧師24年目、退任の1年前)

時の満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものがキリストのもとに一つにまとめられます。 エフェソ 1:10


 元町通りはお洒落で明るい。港町ならではの文化のきらめきがある。そして、その元町通りは、神戸教会発祥の地でもある。そこに最初期の建物があった。今でも写真がある。

「この建物を初めて借りたのは明治六年の二月だったと思ふ。……最初は単に本屋として使ったので、家賃の半分も前田泰一君がでしてゐた。公開の説教所として使ったのはその年の秋の終わり頃だと考へられる。翌明治七年四月、十一人の会員に依って神戸教会の創立されしも亦同じくこの建物に於いてである」

 これは、その写真の裏面に、宣教師グリーンが記した言葉である。

 明治11年1月4日の「七一雑報」付録には、神戸元町五丁目神戸公会とある。

兵庫県神戸市中央区元町通5丁目

 今五丁目には、小磯良平兄デザインの看板を掲げた十字屋洋服店(武田文雄兄)などがあるが、どの辺りが教会だったのか、場所を特定した歴史家はまだない。

「神戸公会○○録」(明治20年までの教会員名簿)を見ると、元町通りの住人が何人かいる。27番目、明治8年6月27日の受洗者、三谷左介・なお夫妻の住所は元町一丁目。夫妻は、職工を使って、神戸では元祖になる「ブリキ屋」を開業していた折、宣教師デイヴィスから洗礼を受けた。彼は三田藩の出身で、尊敬する家老・白洲退蔵から

「三谷、お前は耶蘇(ヤソ)教を信じなければ、本当の人間にはなれないぞ」

 という入信の勧めを受け、それに従って、迫害をも恐れず、相当な覚悟を持って教会員になった。当時の教会で、家族を持ち、独立の生計を営んでいたのは、彼くらいであったという。

 翌年より執事として、事務、結婚、葬儀、親睦会などの世話をし、明治13年、妻の母の葬儀・埋葬を官憲や僧侶の圧力に抗して、初めてキリスト教で行なったという。夫妻の受洗と同時に「嬰洗」と記され、子息・種吉、寅吉の名が記されている。

『日本キリスト教歴史大辞典』によれば、三谷種吉(1868-1945)は

「福音唱歌作者、伝道者、……同志社卒業後、神戸の外国人商社に勤めながらイタリア人から音楽を学び、また語学の才を生かして英国人伝道者の通訳として働くうち、召命を感じてバックストン(イギリス教会宣教会宣教師 1860-1946)の日本伝道隊に加わる。アコーディオンを肩に全国を音楽伝道し、『基督教福音唱歌』『霊感賦』……を発行、代表作は「神はひとり子を」……など、月刊『基督教新聞』を発行した」

 となっている。

 このたび『日本で最初の音楽伝道者・三谷種吉・ただ信ぜよ』(榊原正人・三谷幸子共著、いのちのことば社、2001)が出版された。

 著者からの恵贈に与かり、読了して、ひとりの伝道者の生涯の働きに驚くと共に、今更のごとく、神戸教会の源の深さを思った。この本の付録に『三谷左介翁之生涯』が付いている。ここには、初期神戸教会の生活が生き生きと告げられている。

 神戸教会はかつて一回だけ分裂をしたことがある。時代の急激な右傾化の中で「国際派」であるがゆえに不信任された牧師・本間重慶を慕う「貧しい人々」が、1891(明治24)年、神戸基督公会(後、活田教会、現、神戸雲内教会)を設立した。左介はその中にいた。種吉は献身した後、多聞通りに伝道館を建て、伝道活動の拠点とするが、神戸で活躍している間は、活田教会をよく応援している。

 私たちは、日本の初期プロテスタントの最初の指導者、新島襄、本多庸一、井深梶之助、小崎弘道、海老名弾正、植村正久、内村鑑三らを知っている。

 しかし、三谷種吉が生涯を通じて交わりを持った同信の友・伝道者は、年代的にはその次の世代であった。笹尾鉄三郎、松野菊太郎、木田文治、川邊定吉、秋山由五郎、大江邦治、中田重治、御牧碩太郎、竹田俊三などである。これは日本における純福音運動の第一世代の指導者たちであった。

「元町通りのキリスト教」は、その本流ではリベラリズムへと伸びたが、種吉を通じて純福音にも花を開かせた。そして、音楽という衣を纏って、伝えられたところは、発祥の地、神戸の特質であろうか。

 音楽文化を纏った宣教活動は、神戸のキリスト教の歴史を彩る一面である。今、また、パイプオルガンがその役割を担うことは、この教会の発祥に因んで趣のある所だと思う。

(第一面の私の原稿の遅れで、本来、パイプオルガン奉献式後、時をおかずに発行されるべき、この会報の発行が大変遅れたことをお詫びします)

(サイト記)

個人消息(2000.12.11-4.15)より抜粋

古森昇兄 3月29日11時57分、全身内臓ガンのため協和まりなホスピタルにて死去された。葬儀は行わないという故人の意思により30日(金)午後2時、教会和室にて岩井牧師により出棺の祈りが捧げられた。哀悼申し上げ、平安を祈ります。

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