受難週雑感(2001 週報)

2001.4.8、 神戸教会週報、復活前第1主日

(牧会43年、神戸教会牧師 23年目、健作さん67歳)

礼拝説教:ヨハネ 17:20-26、説教題「彼らをも愛しておられた」

”受難”とは何か。

 人間が意識的に連帯的に繋がって生きるのか、無意識に支配・従属的な繋がり方に馴染んで生きるのか、その白と黒との灰色の狭間での戦いの苦しみを、意味あらしめている”神の出来事”だと信じる。

 人類は、支配・従属的・縦構造を強固な人間の安定した繋がり方として維持してきた。

 その持続装置として、単純に言えば、最終的には”力”は血縁(民族主義)、武力、軍事力、富、権力、思想(情報力)の意識的操作で作動する。

 他方、人類は、その構造が誰を痛めつけ、疎外し、殺したかを、また現実がいかに過酷であったかを、認識してきた。

 そして”愛”、”信頼”、”共生”を信じてもう一方の歴史を戦い取ってきた。

”受難”とはその狭間での、戦いの軌跡である。

 そこに、不思議な希望があるゆえに、それは”神”の出来事である、との”信”を多くの人々はおいてきた。

 そして、その受難の凝縮した歴史の一点にイエスの姿を思い浮かべてきた。


 詩人アンドレ•シュアレスは『受難―12の詩編』という文章を書いた。それに感動した画家ルオーは、この文章に「受難」という54点の挿絵の作品を残した。(『受難―パッシオン 54の連作油絵とアンドレ•シュアレス12の詩編』岩波書店 1975)

 シュアレスは最初の詩「他に行こう」の冒頭を次のように書き始める。

”この御目、深く悲しむ星でできた愁(うれ)わしげな御目、永遠の訣別(わかれ)の際でも、星空よりもにこやかな御目、これこそわれわれを旅にいざなうのである。”(受難―パッシオン 54の連作油絵とアンドレ•シュアレス12の詩編』岩波書店 1975)

 一方の世界から、旅にいざなう不思議ないざないを持つ世界を”受難”として述べた。

”受難”はパッション(Passion)という。この言葉は、パッシィブ、すなわち”受け身”という意味を持ちながら、同時に”情熱”という意味を持つ。

 ルオーの「受難」の最初の絵のイエスは、歴史の悲惨を凝視するように、はっきりと目を前方に見開いている。

(サイト記)画像はルオーのpublic domain、“Crucifixions” Georges Rouault by Google Arts。本文中のルオーの絵がわからないため、参考まで。


 先週、凝視すべき出来事が、新聞の見出しにはたくさんあった。

「『つくる会』教科書合格 ー 自国中心の歴史観 ー 神話や勅語詳述」。

 これに対して各新聞社は社説で一斉に批判を書いた。

 韓国の指導的キリスト者思想家・池明観(チミョンガン)氏は、日本の「歴史意識の古層隆起を憂い、理性と寛容で克服を」と抑えた論調だが、厳しく批判し、訴えている。(朝日新聞)


「国立市立小の音楽教諭『君が代』伴奏忌避(きひ)ー 全国から校長に職務命令を出さないようにとの要請文殺到」(クリスチャン新聞)


「『軍隊は住民守らぬ ー 自衛官の女子中生暴行事件に怒り』海兵隊撤退県民会議」(沖縄タイムズ)


「元慰安婦が逆転敗訴 ー 広島高裁」(神戸新聞)


 歴史は罪責の自覚、そして人間の共存へとは向かっていない。

 受難の現在性を思う。


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