十字架を囲む人々《マルコ 15:33-47》(2001 礼拝説教・週報)

2001.4.1、 神戸教会週報、復活前第2主日

(牧会43年、神戸教会牧師 23年目、健作さん67歳)

マルコ 15:33-47、説教題「十字架を囲む人々」

 マルコ福音書 15章33節。

”昼の12時になると、全地は暗くなり、それが3時まで続いた。”(マルコ 15:33、新共同訳)

 正午から3時間に及ぶ暗黒を、マルコはイエスを嘲笑しているものたちへの審判の徴として、読者に理解させようとしている。

 古代東方において偉人の死には宇宙論的な徴が伴うとされた。

 ユリウス・カエサルが死んだ時に、太陽が暗くなったという話を、読者は知っていた。


 34節。死期が近づくとイエスは、詩編22編22節の言葉を叫ぶ。

”3時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。”(マルコ 15:34、新共同訳)

 この詩編22編全体を考えて、神への信頼を表明したとする解釈と、神に見捨てられた絶望を、あるいは、苦難の詩人との一体化によって、神の沈黙に抗う叫びだと解釈するか、考え方は古来二つに分かれている。

 福音書のイエス理解をここは大きく左右する。


 38節。神殿の内部、至聖所の内と外とを区別する幕があった。閉じられていると、神の不在を示し、開かれていると神の臨在に近づくことが許されているという意味で設けられた幕。

”すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。”(マタイ 15:38、新共同訳)

 垂れ幕が「裂けた」は、神への接近が許された、あるいは神殿祭儀の終焉などを意味する。


 39節。百人隊長の告白。ここは、マルコの二つの告白と関連している。

・マルコ1章10節。イエスが洗礼を受けた際に、天が裂けて「あなたはわたしの愛する子」と天からの声がした時。

・マルコ9章7節。山上での変貌の際、「これはわたしの愛する子」と天から声がした時。

 かつての天の声を「百卒長」が告白するところに、特徴がある。

”百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。”(マルコ 15:39、新共同訳)

 大貫隆氏は、ここに「マルコの十字架の神学」の中心的告白を見ている。

 百卒長が異邦人であることにも注目されねばならない。


 40〜41節。三人の女性が名前と共に登場する。

 マルコの編集は、男性弟子を中心としてなされてきた。三人の女性の名前がここで現れるのは唐突である。

 今まで抑えられてきている。

 いわば、ここで「新しい活動者」「残りの者」「命の活動者」を登場させて、逃げてしまったペトロ以下の男性弟子(15:50-52、14:54、14:71)の悲劇的姿に変わる弟子像を示す意図が窺われる。

「遠くの方から見ている女たち」(40節)に注目したい。

”また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。”(マルコ 15:41、新共同訳)

 41節には「彼らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった」とある。

”この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。”(マルコ 15:41、新共同訳)

 三人の名前の背後に大勢の女性たちが想像される。この三人は、その仲間の核になっていたのであろう。

 マルコには男性弟子の召命記事しかないのはなぜか、など疑問が残る。

 マルコ執筆の時代の教会の意識が反映していたのであろうか。

「遠くから見ている」は、政治的には「近づけない」状況を暗示する。

 しかし、彼女たちの、離れがたい心の痛み、悲嘆、関心、心遣い、興味、待機、などを象徴的に表している言葉である。

 時間を作り、そこに居続けることは、人格的交わりの基本であろう。


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