香り《ヨハネ 12:1-11》(2001 礼拝説教・週報)

2001.3.25、 神戸教会週報、復活前第3主日

(牧会43年、神戸教会牧師 23年目、健作さん67歳)

ヨハネ 12:1-11、説教題「香り」

「香油を注いだ女性の物語」もまた四旬節・レントに読まれる。

 4つの福音書に出てくる(各福音書での該当箇所、新共同訳聖書での小見出し。マルコ 14:3-9「ベタニアで香油を注がれる」、マタイ 26:6-13「ベタニアで香油を注がれる」、ルカ 7:36-50「罪深い女を赦す」、ヨハネ 12:1-8「ベタニアで香油を注がれる」)。

 だが、物語の持つニュアンスはそれぞれに異なる。

 伝承の源は多分一つであったものを、各福音書記者は、自分の福音書の文脈に合わせて引用したのであろう。

 4福音書全てに共通しているのは、一人の女性がイエスに香油を注いだこと、人々は非難したがイエスは彼女を弁護したこと、の2点である。

 マルコとマタイは、女性はイエスの頭に香油を注ぎ、ルカとヨハネは、イエスの足に注いでいる。

 後者「足に注ぐ」は、当時の地中海世界では一般的な社会風習であったから、この物語の特異性は「頭」と「女性」との2点にあったと思われる。

 伝承の成立から考えると「埋葬の準備への言及」(ルカにはない)は後の説明的付加であり、イエスの「貧しい人への言及」(ルカにはない)は、イエスに遡るものであろうと言われる。


 ヨハネの特徴は、女性の行為に憤慨した人(マルコでは”無名”、マタイでは”弟子”、ルカでは”イエスを招待したファリサイ派の人”)を「イエスを裏切るイスカリオテのユダ」と特定していることである。

 ヨハネは、このことにこだわり、4節〜6節で説明句をつけている。

”弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人(ぬすびと)であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。”(ヨハネ 12:6、新共同訳 1987)

 かつて、この導入を切り口にして「人格的関係による価値観と経済的関係による価値観」との対比を説き、どちらを優先させ、また選び取って生きるかを、この物語に読んだことがある。

 前者は「死」を媒介にした関係であり、後者は「死」を媒介にしない関係である。

 前者は「愛」をもたらすし、後者は「支配か従属か」をもたらすことを読んだ。

 イエスとの関わりは歴然として「愛」の受苦と成就にあった(1983年3月6日 週報参照)。

 この頃、日本の経済は右肩上りであった。


 さて、最近思わぬ文章を読んだ。

「…ふだん誰にもさわらせない、たいせつにしているやわらかな長い髪で、イエスの足をやさしくおおい、しなやかにまとわりつく髪をすべらせて、香油をゆっくりとイエスの足全体にのばし、かかとから指のあいだ、そして指先にいたるまでていねいに拭いとる。……イエスはマリアから苦難と死に向かって歩みだす力を与えられ、マリアはイエスから、愛するイエスの苦難と死を受け入れる力を与えられたに違いない」

(『イエス ー 22人の証言』教団出版局 2000年)

 こんな感性に続く黙想を温めてみたい。


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