問いを抱き続ける《マタイ 16:13-28》(2001 礼拝説教・週報)

2001.3.11、 神戸教会週報、復活前第5主日

(牧会43年、神戸教会牧師 23年目、健作さん67歳)

マタイ 16:13-28、説教題「問いを抱き続ける」

 この箇所も四旬節(レント)に読まれるテキストである。

「ペトロの信仰告白」「イエスの受難予告」「自分の十字架を負うことの勧め」が一連のまとまりをなしている。

 マタイ全体の真ん中に位置して、内容的には、前半のイエスのガリラヤでの宣教活動と、後半のエルサレムでの受難の、分水嶺のような位置にある。


 ガリラヤの群衆は、ローマの政治的圧政の中で民族的解放を求めて、イエスを救世主(メシア)に仕立てて従ってきた。

 しかし、ユダヤ官憲との衝突が始まると、群衆はイエスのもとを去り始めた。

 その時ペトロは「あなたこそキリスト(メシア)です」と告白した。

 彼らの抱くキリスト概念は、必ずしも「受難のキリスト」概念ではなかった。

 十字架につけられるイエスではなかった。

 このことはイエスの叱責を受けることとなった。続けて、弟子たることとは、自分の十字架を負ってイエスに従うことだと教えられる。

 弟子たちのイエスへの無理解という福音書のモチーフは、マルコ福音書からのものである。

 マタイは、ペトロの信仰告白を「教会」の視点から、むしろ評価している。


 まず、ペトロの告白が持っている二面性に目を止めたい。

 第一、「告白」は文言化した時、ある決意の表明であるという”実存的な面”と、既成の概念を用いるが故に、”固定的な内容しか持ち得ない”という両面がある。

 ここでは、イエスによって群衆と訣別してまでなされる決断と決意がまず評価される。

「このことを現したのは……天の父だ」とマタイは教会の成り立つことへの筋道を語る(マルコでは全くない)。

“すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。”(マタイ 16:17-18、新共同訳)

 第二は、既成の概念でしかイエスを捉えることのできなかった問題点は、どこにあるのであろうか。

 これはイエスとの関係性の根本に関わることである。

 と同時に「”受難のイエス”とは誰なのか」という問いと関わっている。

 ペトロたちが求めてきた「救い」は、群衆の水準に比べれば、イエスの人格により大きく惹きつけられたものであろう。

 直接的思慕もあったに違いない。悪いことではない。人間の関係性の一面は魅力にある。

 しかし、それも直接性の繋がりで”死”を媒介にしてはいない。

 イエスはそれを超えた”関係性”に生きている。

 ”受難、十字架の死”を媒介とした関係性である。

 イエスの叱責と自分の十字架を負うことへの勧めは、その領域に属している。


 教会を自己実現の場にしてはならない。

 社会や家庭や自己自身に疲れた者の慰めの場である教会は、なお「自分の十字架を背負ってわたしに従ってきなさい」との意味を、問い続けることへの招きの場である。

”それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。”(マタイ 16:24-25、新共同訳)

「自分の十字架とは何か」と。

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