笠原芳光先生を偲ぶ会へのメッセージ(2019 神戸教会)

2019.4.6 神戸教会 笠原芳光先生を偲ぶ会

(健作さん85歳)

 五年ほど前、拙著『兵士である前に人間であれ』(ラキネット出版 2014)を笠原さんにお贈りしたとき、その返礼の「佐藤忠良、群馬の人」の絵はがきに

「一貫して変わらないのが岩井さんの人生と存じます。私はかなり変化したと思います。」

という言葉を戴きました。この言葉の意味には表裏があります。私が、いわゆる「社会派」の「牧師」を生真面目に教会の内側で貫いて来たことへの評価と多少のその狭さへの批判を含んでいるものとして、私は受け取りました。

2012.7.8

 私にも人生に「大学教師」への誘いがなかった訳ではありません。しかし、私は自分の父が田舎牧師から、神学部の教師、大学の設立、学長など多面な生き方をしたこともあり、異教社会の日本では、教会の現場がまず大切なことを考え、特に「教団の戦争責任告白」を後の教団総会議長・鈴木正久氏に提言したことなどを思い、現場で「世に仕える教会」「教会の体質改善」の牧会をするべく自分を釘づけして来た想いがあります。

 神戸教会では彼は伝道師、私は神学生で、講壇の横の小部屋が伝道師の住居だったので、派遣神学生として毎土曜日、そこに彼のベッドの下で、泊まらせてもらったことなど、懐かしく思い起こします。

神戸教会の外壁をバックに 岩井牧師

 私は「教会の内側」で、笠原さんは「教会の外側」で、「森集会」、主として大学を場とした「宗教思想家」としての歩みをなさいましたが、同志社と言うルーツ、神戸教会という場を共有したことを今偲んでいます。

 同志社では、父岩井文男が同志社で宗教部長をしていた時代に、宗教部主事に「誰がいいかな」と聞かれた時「笠原さん」と思わず言ったことを思い出します。以来同志社では父を本当によく支えて戴きました。岡本精一教授の片腕として精華に移られてからは、その場で、学長、理事長の重責の傍ら多くの素晴らしい数々の業績や仕事を遺されました。

2012.7.8

 また、昨年お送りした『聖書の風景 − 小磯良平の聖書挿絵』は手に抱えて下さったとのおしらせを戴き喜んでいます。

 笠原さんを私なりに三語で表現すれば「英俊、先駆、温情」でしょうか。鋭い知性。人に先駆けた発言。配慮ある周囲に温かい発言、などです。

山下長治郎兄。笠原・山下は行きつけの神戸の焼き鳥屋で岩井を囲むこと頻繁であったと聞いている。二人は牧者の癒し人であり続けた。山下の死後、笠原・岩井は震災を挟んで4年をかけて散逸した歌を収集し『山下長治郎歌集』として編集・出版(1997)。歌集の出版は『近代日本と神戸教会』の出版と合わせて笠原・岩井の渾身の共同作業であった。

 若いときから「死ぬまで生きる」とよく言っておられましたが、中々含蓄のある言葉でした。91歳。言葉通りです。

 遺された奥様とご子息の上にお慰めをひたすらお祈りします。

 また、教会の皆様には神戸教会の一つの時代に想いをよせつつ、ますます教会の宣教に励まれるようお祈り致します。

2019年2月 群馬榛名山麓にて

岩井健作


(サイト記)

 笠原芳光さんの写真は2012年7月8日に撮影されたものです。健作さんとの若い頃の写真が見つかれば追加します。

 昨(2018)年の11月10日に死去した笠原芳光さん。遺族主催の「偲ぶ会」に健作さんは招かれていましたが、体調不良で参加出来ず、神戸教会の「偲ぶ会」に宛てた一文を2月にお書きになっておられました。本日(2019年4月6日)神戸教会で「偲ぶ会」が開催され、本日掲載の許可をいただきました。
 故笠原芳光さんは「宗教思想家」として知られ、2018年11月18日の朝日新聞が「死去」を報じています。「元精華大学長・宗教思想家」としてです。もちろん日本基督教団年鑑の教師名簿にも載っておられます。「イエスはキリストではない」という言葉からはじまる『イエス逆説の生涯』(春秋社1999年)は名著で、キリスト教以外の人によく読まれたイエス伝です。


健作さんによる書評『イエス逆説の生涯

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