(最新)ベトナム戦争当時の教会活動(2019)

2019.6.12執筆 「基督教世界」7,8,9月号所収

(健作さん85歳)

 1970年代、丁度、教団紛争、万博問題のあった時代、私は山口県の岩国教会の牧師であった。岩国は地方都市である。東京や関西などの大都市部の教会と地方の教会ではかなり課題の違いがあった。私にとっては「教団紛争・万博問題」は情報を聞き、また関心ももってはいたが、他山の石であった。しかし、現場には固有な問題があり、二つの課題に取り組んでいた。一つは米軍基地の問題。もう一つは教会付属幼稚園の問題であった。

高倉徹(教団総幹事・前岩国教会牧師)、マクウィリアムズ宣教師、岩井健作、田口重彦
デモ行進に参加する岩国教会員
岩国教会員と教会幼稚園教師

 第一の基地問題は、1970年代、米軍岩国基地の一人の海兵隊の兵士が基地を脱走して匿ってくれと教会牧師館の拙宅へ駆け込んで来た時から始まった。その時は結果的には基地に戻るように説得した。ベトナム戦争時の脱走兵の数は全体では35万4千人余。北ベトナム側死者およそ227万、南ベトナム・米国側死者98万と記録されている。その脱走兵は教会へ駆け込めば何とかなると、どこかで聞き、そう信じていた。幼少時代には日曜学校に行っていた、と言う。

 この出来事までは、私の教会の務めは、岩国教会の前任者・高倉徹牧師の後を継ぎ、教会の日常的牧会活動の他にPTAなど地域の活動。米軍基地の問題も撤去運動などは革新政党と共にやっていた。しかしそれ以来、連日官憲の目をくぐって、夜やってくる反戦兵士の話を聞くなどの支援活動が加わった。岩国地区在住の宣教師の支えが大きかった。

マクウィリアムズ宣教師(教団が招いたカナダ人宣教師、当時岩国の玖珂教会牧師)
マッカーサー宣教師(アメリカのNCCから派遣された宣教師。岩国基地の外で黒人兵士への牧会活動)

 昼夜の活動に連れ合いは体調を崩して入院してしまった。米軍基地は「軍事施設」から「兵士のいる人間の施設」へと認識を変えさせられた。兵士の話を聞くと、ベトナム戦争で、ベトナムに送られた部隊の過酷さが伝わってきた。そうして戦場ではベトナム兵は確実に銃口の狙いを黒人兵は避けたという。戦場で彼が思い出したのは、自分が子供の頃の日曜学校で聞いた「殺すな」という聖書の言葉であった。当時ベトナム兵を「ベトコン」と称して「コミュニスト」を殺すことが米軍の使命であると教えられたという。彼らは「兵士である前に、人間であれ」(拙著書名でもある)という心をどこかに宿していた。

「脱走兵」とは「兵士」が「人間」に戻ることであった。多くの脱走兵が続出した。世界的に「脱走兵支援」の運動の渦が、当時わき起こっていた。日本でも「ベトナムに平和を市民連合(ベ平連)」や「脱走兵支援組織」が立ち上げられていた。哲学者・鶴見俊輔、作家・小田実などが中心になって活動をした。

岩国に何度も足を運び続けた鶴見俊輔。
小田実。阪神淡路大震災の被災地にもボランティアとして駆けつけた。

 当時日本でも市民が取り組んでいた脱走兵支援組織は人から人へと伝わった「地下運動」として脱走兵士を北海道からシベリヤに送っていたという。そんな鶴見俊輔さんとは岩国で親しく交わった。鶴見さんから学んだことは大きい。彼は「一人でもやる」という姿勢だった。当時、社会党・共産党・労働組合を何よりも大きな枠組みとして、反体制運動をやってきた私などには新鮮な響きを持っていた。現に岩国では、組織に属さず、英語も出来ない青年戎(えびす)君が、たった独りで脱走米兵支援をしていた。彼がそこの兵士たちのアジト「隠れ家」に僕を連れ出した。岩国教会には理解があった。教会には米軍岩国基地に要員として勤める人たちがいた。教会役員の一人は基地の警備員だった。基地の関係で生活している人が、教会員にいたものの、牧師のかなり目立つ「脱走兵支援」「反戦活動」を大目にみてくれたのは、救いであった。

 私にとっては、そもそも米軍基地がなぜ日本に今日に至るまであるのか、外国軍隊の基地がある国はほんとうに独立国か、を問題にせざるを得なかった。日米安保条約、地位協定が今さらの如く身にしみた。米軍の日本在留はここで決められている。それがあたり前になっていること自体に「米国従属国日本」の姿があった。これは現在も変わっていない。

 第二の問題は教会付属幼稚園に関わる事柄であった。

① 宗教法人立幼稚園がどのようにして国家助成を得るかという問題である。日本の教会は地域との関わりを密にするために、宣教的目的で幼稚園を経営しているところが多い。国が、幼児教育は学校法人で行うようにという方針を打ち出してから、土地・建物を独立させることが可能な所は「学法化」して、幼稚園を独立させた。しかし、それはまた教会から実質的にも運営を離れる事であった。だが、会堂など使用していた弱小幼稚園(私学法102条園)はそれが出来なかったので、「宗法」のままで運営していた。そこに公的助成を得ることは難しく、また都道府県で方針も異なっていた。山口県は、園児への直接の助成はあった。しかし園への助成はなかった。それに対して助成を受けて、教師給与の底支えを求める運動を有志で行った。その後これは日本私立幼稚園連盟の問題となり全国的に運動が展開された。各県違いはあるものの色々な方法で教会幼稚園にも助成の道は開けた。

② 当時の思い出を語れば、情緒障害児(自閉症)の子供をお預かりしていわゆる「統合保育」をしたことも忘れることが出来ない。今では当然のこととされている「統合保育」は1970年代ではまだ一般化されていなかった。この時の教師達の協力は忘れることが出来ない。

ベトナム戦争当時、健作さんが基地問題、幼稚園問題に奮闘し牧会する岩国教会を訪ねるご両親。父・文男牧師は同志社大学神学部教授、大学宗教部主任退官後、当時、郷里安中市の新島学園中学・高等学校校長(1961-1982)。1975年の新島襄帰朝百年記念講演会には講師に鶴見俊輔氏を招く。1983年、新島学園短期大学の初代学長、建学理念は「真理・正義・平和」。

 少しキリスト教の戦後史を顧みておくと、日本基督教団は第二次大戦後、賀川豊彦などを中心に「300万人救霊運動」を繰り広げたが、それはやがて行き詰まった。教会が伝道によって信者を獲得するというだけでは、教会の使命に限界があることが自覚され始めていた。「この世」に対する観点をかえ、「世に仕える」教会の視点で、「教会の体質改善」と地域教会の協力という「伝道圏伝道」を打ち出した。丁度わたしが神学校を出て牧会に出た頃である。その課題に取り組み、教区・教会がらみで地道に実践し課題としていたのが「西中国教区」であった。この教区では「万博」や「教団問題」へのラディカル(急進的)な問題提起は起こらなかった。しかし伝道と教会訓練のみという古い教会形成の雰囲気の中で「教会改革」の問題意識を持った者たち、牧師・高倉徹、杉原助(たすく)などが「執行部」を担っていた。「教団」から見れば一つの「解放区」であった。これは教区の旧い人たちの意識に対して、一種の「革命」を起こした新しいリーダーが教区の「執行部」に入れ替わったことであった。

左から二人目・岩井、3人目・杉原助(岩国東教会から広島南部教会牧師)

 遠因を辿れば「キリスト教の変革」を運動として起こした代々木上原教会で、雑誌『指』を発行した「赤岩栄牧師」の影響を受けたことにあったが、神学的には、カール・バルトの影響を脱して、神学者ヘンドリック・クレーマーやルドルフ・ブルトマンの影響を受けた人たちが、教会の現場に多かったということになるだろう。

 最後に、自己紹介をしておきたい。1933年生まれ。1958年 同志社大学大学院卒(神学修士)、広島流川、呉山手、岩国、神戸、川和、明治学院の諸教会で牧会、現在隠退教師。著書『聖書の風景―小磯良平の聖書挿絵』(新教出版 2018年)『地の基震い動く時―阪神大震災と教会』(コイノニア社 2005年)他。ホームページ「岩井健作.COM」。教団では、常議員、沖縄との合同とらえ直し委員会・長、などを歴任。現在、群馬県にある社会福祉施設・新生会老人ホームに在住。

岩国教会元牧師・岩井健作、岩国東教会元牧師・田口重彦(2019.6)
有志市民・ベ平連の新聞紙上の意見広告。
岩国東教会牧師・田口重彦ご夫妻

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