『ほびっと』から(2019 サイト管理者)

(サイト注)『ほびっと 戦争をとめた喫茶店 ベ平連 1970-1975 in イワクニ』(中川六平 講談社 2009)における、岩井健作さん登場場面の一部を引用したものです。
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1971年の秋(サイト追記:当時、岩国基地の核配備疑惑が新聞報道で問題になっていた。以下、中略はサイト記)

中央、岩国東牧師・田口重彦ご夫妻。

 10月25日(木)核兵器の問題がどんどん広がってきている。不動産屋さん巡りを続けているが、これがまったくうまくいかない。駅前を中心とした場所に15坪前後で店舗になるような空き家はない。改装して喫茶店になるような物件もない。そんな言葉が、不動産屋さんから返ってくる。ぼくが若くてよそ者だから相手にされないのだろうか。ようやくある店舗が見つかったが、翌日行くと、他の人に決まっていた、とか。一昨日、「20坪。敷金50万円。家賃月5万円」という物件があったが、駅からも基地からも遠い。資金の問題もあった。ぼくの手元にあるのは35万円、東京都や京都のべ平連から届いた支援のお金だ。

 そんなぼくらに、昨日、岩国教会の岩井さんから「いい話がある」と連絡が入った。岩国教会近くにある歯医者さんの奥さんからの情報だという。その歯医者さんはHさんといい、息子は京都大学医学部の学生で、ぼくはべ平連の集会で何度も会っていた。昼過ぎ、駅前からバスで錦帯橋まででかけていく。終点から岩国教会はすぐだ。岩井さんが紹介してくれる。Hさんは、すぐに話しだす。


左端・健作さん、中央・田口牧師、右端・マクウィリアムズ宣教師(岩国教会)

「今津川の新寿橋の手前、駅から行ってですが、そこに山崎さんがやっていらっしゃった病院があるんです。山崎さんが亡くなり、病院をやめられた後に手放したのですが、長いこと空き家になっていますよ」。駅前とフォーコーナーを結ぶ真ん中あたりにあるという。その元病院という家の前を、ぼくらはデモで何回も通り過ぎていた。その家が丸ごと空いている。Hさんは電話を借りますといって奥の部屋へ行った。すぐに戻ってきて、現在の持ち主について教えてくれた。(中略)感謝の気持ちでいっぱいになった。



 幸いなことに京都から鶴見さんと小野弁護士が岩国に来ていた。岩国基地の核問題で明日、記者会見を予定していたのだ。教えてもらったばかりの物件話と経過報告をかねて、鶴見さんに会いに行くことにした。(中略)ぼくは、駅前のホテルの鶴見さんがいる部屋にあがっていった。岩国に住むことを決意した後の京都での会議以来だ。Hさんが教えてくれた話を伝える。鶴見さんは黙って聞いていた。そして、いった。
「(中略)いい機会です。その人(K氏)にすぐ会うことです」
 ぼくはその場で電話をした。明日お会いしたい、と(中略)。

『ほびっと』 p.87-89

 1972年の初夏(サイト追記)同志社大の学生でありつつ岩国で喫茶店を始めた息子に驚き、ご両親が心配して新潟から訪問。

 5月10日(水) おやじとおふくろ、12時ごろ、岩国駅に到着。「ほびっと」に案内する。店内をきょろきょろ見回す。岩国には明後日まで。宿泊は、岩国教会の岩井さんが予約してくれた「山根旅館」、錦帯橋の近くで教会から目と鼻の先だという。旅館では、岩井さんが、ぼくらの夕食がすんだあとに挨拶に来てくれた。両親とだけ顔をつきあわせているのはつらい。岩井さんの存在は大きい。ぼくは、用があるといって、岩井さんと入れ替わるように旅館を出た。あとで、おふくろがいうには、岩井さん、ぼくが大学を卒業するよう本人を説得します、と話したという。

5月11日(木)…岩井さんが、今夜もやってきてくれた。岩国の町のこと、ほびっとについて話してくれた。

5月12日(金)朝の9時36分発で、両親、京都に向かう。今夜、鶴見俊輔さんと飯沼二郎さんが会ってくれる。…

『ほびっと』 p.155-176


(サイト補)鶴見さんの「あとがき」では後述の家宅捜索が新聞記事になって初めて息子が「ほびっと」で働いていることをご両親が知って岩国を訪問したとある。鶴見さんの37年前の「記憶」と「涙が止まらない」という現在の想起こそが、「人民の記憶」というものであるだろう。また、岩国滞在のふた晩、健作さんがご両親にどのように話してご理解を得られたのか、六平さんが日記には綴ることのできなかった「おとなたちによる」支援の積み重ねが底流にたくさんあったに違いない。翌日、鶴見さんがご両親に会った時、ご両親の息子への信頼と言葉とが、鶴見さんの心を打ち「感銘」として深く心に刻まれたことは、鶴見さんが「あとがき」に書いた通りだ。

 1972年の初夏(サイト追記:6月4日(日)、「ほびっと」が岩国警察署から警官18名による家宅捜索を受ける。22日には米軍司令官から「米兵立ち入り禁止令」の通達が届く)

 6月7日(水)夕方、田口さん(岩国東教会牧師)の奥さん、幸子さんが店のドアを開けた。どこかウキウキしている。

「こんなの作ったのよ」

 そういってわら半紙をホッチキスで留めた小さな、本当に小さなパンフレットをテーブルの上に置いた。

<しのびよる権力の弾圧から「ほびっと」を守ろう!>とあった。

「オーッ」とぼくは声をあげた。カウンターのワシノを呼んだ。店には、岡林信康の「おまわりさんに捧げる唄」が流れている。「これはすごいや」とワシノはいった。手に取ると、【「ほびっと」に出入りする広島および岩国の住民の声】と書かれていて、4ページ、ガリ版刷りで、小さな文字が並んでいる。

 4日の家宅捜索からわずか3日しかたっていない。それなのに、【「ほびっと」を守ろう!】だぜ。岩井さんに、幸子さんの友達の松森さんも芙佐子さんも実名で書いている。本当にすごい。

「声を出して読みましょうか」というと、「恥ずかしいから、ここで読まないで」といって、ワシノさん、コーヒーといった。幸子さんは《「ほびっと」からの電話を受けて》と書いている。

《日曜日の午後1時50分、「ほびっと」から電話がかかって来ました。理由もなく捜索されているところなので、自分達だけだと興奮しそうだから、主人にすぐ来てくれというのです。あわただしい足音と、喧騒は、生々しく、その場面を私の耳に伝えて来ました。(中略)権力という不気味なモンスターの気配を感じます。私達が一人である限り、それに対して無力です。その意味から言っても、私達の岩国の街での喫茶店「ほびっと」の存在意義は大きいのです。平和の徴である「ほびっと」が、もし、つぶされるようなことがあれば、岩国市民の恥です。みんなで、「ほびっと」を支援していきましょう》

 幸子さんを見ると、うつむいていた。

『ほびっと』 p.173-174


田口牧師ご夫妻

(サイト追記)

 喫茶店ほびっと:1972年2月25日開店。1976年1月18日閉店。
 1971年5月5日には「凧あげでファントムを止めよう」を開催。
 1971年12月18日には岩国体育館でGIコーヒーハウス建設支援の反戦コンサートを開催、ジェーン・フォンダやドナルド・サザーランド等がステージに立ったとある。


健作さんと鶴見俊輔さん(右)、左に凧揚げの凧が写っている。

 六平さんは、73年9月に「ほびっと」を託して京都に戻り、75年、同志社大を卒業。「東京タイムズ」に就職。本書『ほびっと』は2009年10月出版。

「ほびっと」時代の日記を元に執筆を開始するまでに40年近くの時間が必要だったということだろうか。


 岩井健作牧師(岩国教会)、田口重彦牧師(岩国東教会)は、本文中随所に登場するが、六平さんは書いている。

 ほびっとにとって、岩井さん・田口さんの存在は欠かすことができない。(p.186)


左・田口重彦牧師、中央右・マクウィリアムズ宣教師、右・健作さん

 鶴見俊輔、小田実、吉川勇一、笠原芳光らの講演会やデモ行進、家宅捜索や立ち入り禁止令の中での喫茶店の営業、逃亡米兵支援、長期にわたる裁判闘争の中で、岩国に立てられた岩国教会・岩国東教会の牧師・牧師家族・信徒・幼稚園関係者の祈りと忍耐の積み重ねは、いかなるものであっただろうか。六平さんが去った後の「ほびっと」には2年4ヶ月(合計4年)の営みがあり「記憶」がある。


 2021年12月発行『「ほびっと」とわたし〜それぞれの50年』
(ほびっと50周年実行委員会編 2021)の中の健作さんのテキスト

▶️「ほびっと」とわたし – それぞれの50年(2021)


2019年6月、山梨県 北杜市にお住いの田口重彦牧師(元岩国東教会牧師、同志社の2年後輩、学生寮で一緒)と再会

本書を手にした岩井健作さんによるテキスト:『望楼』

私は岩国でベトナム戦争を経験した。そして今

岩国教会

岩国への想い

基地と教会

米軍基地のある国は独立国か – 岩国そして沖縄の現実


かつて「ほびっと」が営業していた場所。奇しくも米軍司令官からの「米兵立ち入り禁止」通知文面にその住所が記録されている。

山口県岩国市今津2丁目2-39
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