岩国への想い

「求め、すすめる通信」第9号所収 沖縄から米軍基地撤去を求め、教団『合同のとらえなおし』をすすめる連絡会 2008年4月

1970年、当時私は岩国教会にいた。米軍がベトナム北爆を開始して世界の民衆の反戦運動に火がついていた。7月4日岩国労働会館で岩国ベ平連の主催で、小田実、小西誠、吉川勇一氏の講演会が行われた。

夜、錦帯橋通りの教会斜め前の山根旅館に小田、吉川氏の宿をとった。夜半、基地内の兵士の1人から教会へ電話が掛かった。営倉の警備をしていて非番になったMP(警官)の兵士だった。営倉で暴動が起き、兵士が火をつけて火事になっている。これから教会を訪れるという。旅館の前には警察が張っている。吉川さんに電話を入れた。夕涼みを装い、錦帯橋を渡り川上の橋を渡って裏の道から教会にきて欲しいと。うまくいった。牧師館の応接間で浴衣に団扇を手にした二人と若い兵士とは話をした。

吉川さんが東京の朝日本社に電話を入れ、岩国の記者が基地に押しかけ、5日の朝刊の第一面に大きな見出し記事が出た。「岩国基地で反乱米兵32名が営倉を占拠」 。兵士たちは今もそうだが、貧困層の差別されている階層の青年たちが多い。むしろそこでしか食えない若者たちだ。しかし、そのうちのある者たちは「兵士であるより前に人間であれ」という感覚を失っていなかった。こんな兵士が軍隊の中にいることに「アメリカ」の健全さを覚えた。GI(兵士)を待っている間に、書棚の『難死の思想』(小田実 岩波書店1964)表紙裏にこんな言葉を書いてもらった。

岩井さん、アメリカ独立記念日に起こった興味ぶかい事件を午前3時という非市民的時刻にききながら。小田実

その小田さんは逝ってしまった。吉川さんが弔辞で「国家と軍隊と暴力から離脱し、個人として自律の道を切り開く旅は、決して終らずに続けられてゆくものと、私は確信します」(吉川勇一『民衆を信ぜず、民衆を信じる』第三書館 2008)と言っている。

私には「牧師であるより前に人間であれ」という内なる言葉が時に従って聞こえる。それは、イエスの「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8:34) という言葉と同義語に思える。

岩国の米軍基地への闘い、そして神奈川の基地への行動が根底で、沖縄の民衆の闘いに重なる部分のあることを見据えつつ、新たな思いで岩国の集会に参加したいと思っている。



空襲の焼け跡で見た虫ケラのような死=「難死」は、国家のための美しい「散華」などでは決してなかった。「公」のために殺し・殺されることなく、「私」を生き抜くにはどうしたらよいのか。敗戦の日をめぐって、三島由紀夫の割腹自殺をめぐって、空爆にさらされるベトナムや、アメリカ脱走兵をめぐって…。思索し行動する作家が、人間そのものへの深い洞察にもとづき記す平和論。(「BOOK」データベースより)