岩の上の家、砂の上の家の譬え(2008 聖書の集い)

2008.4.23 「福音書の中のイエスの譬え話」第15回
湘南とつかYMCA「聖書の集い」

(明治学院教会牧師 74歳)

マタイ福音書 7章24節−27節、ルカ福音書 6章47節−49節

1.「…言葉を聞いて行う者は皆、岩の上の自分の家を建てた賢い人に似ている。…言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(マタイ 7:24-27 「家と土台」新共同訳)

2.「山上の説教」(マタイ 5章1節から7章28節)の締めくくりに置かれた言葉。「これらの言葉」がそれを示す。

3.マタイとルカを比較すると、マタイの重点は家の土台にある。「賢い、愚か」の評価がつく。「風」「家を襲う」との描写がある。ルカは「掘り下げる」「土台なしで」と表現し「川の氾濫」が中心。砂地の家はパレスチナのワディにおける豪雨の際に生ずる洪水で簡単に押し流される。自然の岩にまで達する土台を持つ家は倒れない。マタイの方が言語上からも、イメージからもパレスチナ的・地方的環境を示し、元来のものに近い。

4.肯定的か否定的か、二つを一緒に表現するイエスの言葉は、ルカの12:8-9にもある。

 読者を今まで語られた言葉の前に連れ戻し、改めて二者択一の問いを聞き手に突き付ける。「あなたはどちらなのか」と。つまり決断を迫る。決断を迫るところが終末論的な性格を持つ。この譬えの大切さはこの決断にある。

5.寓意的解釈を挟む理解は避けるべきであろう。「家」は特別な隠喩的観念連想を招く言葉ではない。例えば、宗教改革の時代の解釈。カトリック教会が「業なき信仰は空しく」「よき業によって堅固とされた信仰」に関係づけて解釈したことに対抗して、プロテスタントは「岩と砂」を「信と業」との対比に持ち込んで解釈した。岩の上は「信仰義認」に立って、基礎なるキリストの土台上にしっかりと建てることだけを強調。砂の上を、自分自身の敬虔と自分自身の業の上に建てることの寓意にした。

6.感動と行為。人が音楽をほんとうに聞くとは、それによって人格的感動を与えられる時。イエスの言葉ヘの感動が行動へと押しやり全生活を貫く。そこに「聞いて行う」(2回繰り返される)ことの真意がある。その時本当に聞かれる。「権威あるものとして」語ったことが強調される。イエスの教えとユダヤ教の教師・律法学者との違いが驚きとして語られる。嵐や洪水での家の倒壊は実際にあった話なのだ。その感動をよみがえらせるのがこの譬え。