2008.4.20、明治学院教会(111)復活節 ⑤
(単立明治学院教会牧師 4年目、健作さん74歳)
ヨハネ福音書 4章1節-14節
「イエスとサマリヤの女」出会いの物語から三つのことを学びたい。
1、出会いの背景としての単独者。「イエスはユダヤを去って」を直訳すると「ユダヤを棄てて」。ユダヤは、ユダヤ教団、民族共同体、政治体制の全体を含意する。例えば、沖縄の人達が「ヤマト」という場合のように。バプテスマのヨハネの死後、パリサイ派はイエスを危検視した。ヨハネと「同質」な運動を避け、政治力学からの自由を目指してイエスは決断的行動を取った。
キルケゴールの言葉を借りれば、イエスは「単独者」の道をここでも選んだ。地縁、血縁、利害、権力、管理、観念による人間関係のつながり(1:12) を超えたところに単独者の姿はある。単独者であることが出会いの根源にある。
2、私はかつて牧会を託された教会で、M夫妻の夫婦としてのあり方から大変教えられた。単独者でありつつ、信仰による夫婦を祈り求めて、そこのところを生涯かかって実現した。
3、出会いの背景としての歴史。「しかし、(イエスは)サマリヤを通らねばならなかった」 (4) とある。「サマリヤ」という地名はユダヤ人とサマリヤ人の歴史的確執を深く負っている。サマリヤは紀元前722年にアッシリヤ帝国に滅ぼされるまでは、北イスラエル王国の都。アッシリヤ占領政策により混血政策が取られ(列王記下17:24)、後「サマリヤ人」はユダヤ人からの独特の差別の対象になった。ゲリジム山の神殿はさらに亀裂を深めた。イエスはセクト(宗派、分派、派閥)とは厳しく距離をおいた。サマリヤの「通過」は歴史の過去を負わざるを得ない旅であった。そこで驚くべき出会いが起きた。余儀なく通過する歴史を通して神は「出会い」を創造する。
4、出会いの象徴としての「水」。サマリヤの女は二重の差別の中にある。ユダヤ人からの偏見と差別、彼女の過去ゆえの差別。朝の一般の水汲時闘を避けて水を得る苦労を背負った女。そこに疲れを覚えて水を求めるイエスが出会う。ユダヤ人とこの女性との会話は異例。イエスが「疲れをおぼえる」という表現は他にはない。「つかれ」(κοπιάω、Kopiao:苦労する、骨折る、働く)は人間の現実として用いられている。新約聖書では21回(マタイ 6:28、11:28等)。ヤコブの井戸(創世記32:25) は神の祝福の井戸。
その井戸の傍らで新しい「神の出来事」が展開する。それは、サマリヤの女性の個人的、民族的な束縛からの解放。「水を飲ませてください」という生活感覚を媒介として展開される出来事。一方で「生活の水」の問題でありながら、ヨハネは「水」に「命の水」という象徴的意味を持せて、井戸のかたわらで、女とイエスの出会いの躍動を表現する。水は出会いの命を言い表している。
5、阿部志郎著『もうひとつの故郷』の中にインドのムンバイで出会った母子の関わりが「水」で象徴される、心温まるエッセイがあった。
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