イエスのいつくしみ

イエスのいつくしみ

(110)「今日の説教、聴き手のために」於明治学院教会 2008.4.13

マルコ福音書 10章21節-31節

1、「いつくしみ深き 友なるイェスは」(讃美歌312、讃美歌21 493番)は、日本ではキリスト教徒以外の人にも親しまれている。結婚式にも葬儀にも歌われる。それは順境の時も逆境の時も、健やかな時も、病む時も「神関係」を基本としているからであろう。


「主が与え、主が取られたのだ、主の御名はほむべきかな」
(「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」ヨブ記 1:20)


「神関係」とは、聖書では「私たちが神に向かう関係」ではなくて、「神が私たちに向かう関係」を表す。
「今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」(ガラ4:9) がうまく表現している。
「神関係」の対義語(アントニム)は「神礼拝」であろう。

2、「いつくしみ深き」という言葉は画家ホフマンの「富める青年を見つめるイエス」を思い起こさせる。

「イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた。『あなたには足りないことが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。…』」(マルコ10章21節)。大変厳しい言葉だ。この世界に格差があり、貧しい人々が存在する限り、多くの人はこの言葉の前には途方にくれる。それにも関わらず「彼」を見つめる目が「いつくしみ」に満ちているとは、どういうことであろうか。

3、マルコ10章は個性的な物語の収録。「離縁について教える」(1-12) 、「子供を祝福する」(13-16) 、「金持ちの男」(17-31) 、「イエス、三度自分の死と復活を予告する」 (32-34) 、「ヤコブとヨハネの願い」(35-45) 、「盲人バルティマイをいやす」(46-52) (新共同訳聖書見出)。イエスの文脈では、無理解な弟子批判、パリサイ派批判である。マルコ福音書の教会の事情からいえば、中途半端な信仰に生きる教会の構成員に対する戒めである。叱責と批判が強い章であるだけに、「イエスのいつくしみ」の表現が、貴い。

4、「いつくしみ」はマタイ(19:16-30) とルカ(18:18-30) では削除されている。「いつくしみ」はギリシア語「アガペー」で、「愛」「神の愛」を意味する。「神関係」の基本用語である。マタイ、ルカは情景と理解して、イエスの叱責にふさわしくない言葉として省いた。

マルコはイエス理解の根本から「いつくしみ」を捉えている。「気を落とし、悲しみながら立ち去る(22)」という人間の弱さの全てを包む「いつくしみ」が福音書の福音理解の根本にあることを示唆する。

5、『現代日本キリスト教文学全集』の第11巻『日常と家庭』に、三浦朱門、島尾敏雄、曾野綾子、三浦綾子、遠藤周作、有吉佐和子の作品が収められている。人間実存の罪深さが扱われているが、その底にある「いのち」をモティーフに描かれた作品群だ。
 有吉佐和子(カトリック)の『芽鱗』(「芽鱗」がりん:木の芽を包む鱗のような覆い。冬の寒さから芽を守る)。
 姑のいのちへの思いが、階段で転げて「でもよかったよ、民子さんでなくて」と漏らす。その言葉が、生活に喘ぎ苦しむ若い夫婦の中絶を思いとどまらせた、いのちをいつくしむ物語。