佐々木治夫神父の講演をお聞きして(2008 ブラジル)

2008.5.2 最終更新、掲載媒体不明(明治学院教会牧師、健作さん74歳)

 去る1月4日、佐々木神父の日本滞在のきびしい予定に組み入れて戴いて講演会が実現できたことを、大変喜んでいるものの一人です。

 会場の「なか伝道所」は、横浜の日雇い労働者・外国人労働者の街にあって、ここの人達と共に人権を守り、人間の尊厳を回復させるという宣教を課題として渡辺英俊牧師を中心に活動を続けている「教会」です。最近少し広いところが借りられて、格段と集会が活気づけられているマンションの礼拝室に、その日は大勢の人を迎えるために特に会場設定を工夫をして設営された部屋の一角の演壇に佐々木治夫神父が立たれた光景に、私は深い感動を覚えました。地球の反対側のブラジルで貧しくされた人々の問題を自分の事として50年に渡って働き続けて来た、一人のキリスト教の教職者が、20年の歴史を刻んで来た日本の宣教のフロントを担う教会の働きと出会って、今、この講演会は始まるのだ、という感動でした。

 約100名(サイト記:数字読解不能)の出席者が注視するなか、静かに咄々と神父は日本語で語られます。外国の状況を、その現地からの発言としてお聞きする場合、普通は通訳を挟んでの講演です。佐々木神父は浜松のご出身、上智大で学ばれたのですから、講演が日本語なのは当たり前なのですが、でもそれは私には驚きです。もちろん現地ブラジルの方ではないから、ネイティブの方の持つ「他者性」とは違っているとしても、ブラジルの現実を「日本の教会には迫害がありますか?」といのちを掛けた戦いの現場から穏やかに、しかも確固たる「他者性」をもって語るその問い掛けが日本語で語られている事に、希有な思いを抱きました。そうして、その背後には「第二バチカン公会議」以後の歴史を感じました。その歴史を刻んだ「教会」の働きがあります。その「教会」とは、ブラジルと日本のカトリック教会の働き、さらには今は亡き小井沼国光牧師が務めたプロテスタント、サンパウロ教会の働きなど、一切を含めたエキュメニカル(教会一致促進)な働きです。何よりも、佐々木神父の講演会で感じた事は、この方の前にいると、自分自身が謙虚にせしめられている、というのが忘れ難い経験です。それは、貧しくされた人々に仕えている神父のその身の低さが醸し出す雰囲気によるものでした。

 講演の要旨をまとめてみます。演題は「ブラジルの政治状況とキリスト教」。

1、まず「ブラジルの貧しい人々について」語られました。彼らは不正な歴史的・社会的制度により疎外されて貧しくされてしまった人々である。500年前ポルトガル人はブラジルに来た。500万人の先住民が土地と生活のための自然を奪われ、350年間にわたって連れてこられたアフリカからの奴隷600万人の子孫と共に教育から疎外され極貧を強いられてきた。悪魔払いとして洗礼を施されキリスト教徒に入れられてしまった人々である。

2、次に「ブラジルの政治状況について」。現在は労働党党首ルーラが大統領である。しかし、連立政権で彼の政策が生かされている訳ではない。エリートの特権保持の植民地主義体制が依然として揺らいではいない。賄賂など政治家の腐敗が非常に大きい。銀行強盗に警察官・検事・裁判官が絡んでいたりして司法の腐敗はひどい。加えて新自由主義の市場原理主義に基づく格差は日本とは比較出来ない位大きい。47パーセントの土地が5パーセントの人の手にある。格差は犯罪を生み、富裕者の安全指向がヘリコプター通勤世界最多を生み出しているのがサンパウロの現状である。世界の資本がバイオ燃料投資でブラジルに投下され、農地改革(それはブラジルを救う唯一の道だと思われるのだが)の推進で土地なし農民が獲得した土地において、私たちが進めている無農薬・有機農業は阻まれている。農業は金融資本によるサトウキビや紙原料パルプのためのユーカリ栽培に変換され、いのちを育む農業を駆逐してしまっている。一昨年辺りから土地改革がストップするだけにとどまらず、土地改革反対の政治力が働き、改革推進の者が殺害される事件が起きている。しかし、ルーラになって、最低賃金が2倍になり、家族(子供)への援助が最高100ドルまで出るようになった、という面もある。

3、そして「ブラジルのキリスト教」。ペンテコステ派の運動が強くなり、7千万人がカトリックからそちらに移った。これは感情に基づいた満足感を与えるもので、原理主義ファナチック(熱狂的)な面が強く、神学がなく、エキュメニズムの対話が出来ない。しかし、これはカトリックにも改革への刺激を与えている。ブラジルや中南米に広がった「解放の神学」は共産主義と同じように扱われ、徹底的に叩かれた。ベネディクト16世以来教会は右傾化している。ネオリベラリズムの問題点を理解せず、富裕層の考えを反映してはばからないまで硬直化している。そこが私たちが苦しんでいる現状である。しかし、ブラジルや中南米では「第二バチカン公会議」以後、聖書学者、神学者はみな貧民街に入っていった。そこで、貧しい人の中に示された神の顔を見に行った。そこがローマの神学と違うところである。「権力ある者をその座から引き下ろし、貧しい者をひきあげられる」という、マリア様の讚歌を心に留め、「賢い者に隠し幼子のような者にお示しになった」という、何も力も持たない底辺の人達に示された神の御顔を仰ぎ、イエスに従い、そこに未来を夢みてゆけるんではないかしらと思う訳です。

 私は、日本のキリスト教の状況と重ね合わせてお聞きしていた。貧しくされた人々の現実に耳を傾けず、まず教会の組織固めを教会法規によって第一義としているのが今の「日本キリスト教団」である。プロテスタントのような所でさえ教会権力からの締め付けを受ければきつい。まして「ローマ」のような一元的な教会で政治的多数で握っているものからの締め付けは想像を絶する。私たちには到底理解の及ばない重圧があることを感じさせた。講演でなされている「ローマ」への批判は神父方が身を晒しての抜き差しならない叫びであることを窺わせた。それだけに「解放の神学」やそれに基づく「聖書学習運動」が、その重圧を跳ね除けてのエネルギーであることに心を打たれる。ネオリベラリズムへの批判的行動を土地闘争の場で実践すれば殺害の危険にさらされる緊迫の状況のなかで、神父自身が労働党の支部長をつとめ選挙の応援する姿や、土地闘争の現場に身を晒して支援をする姿を、あの温顔と重ね会わせて思うと、その重厚な人格に頭が下がった。貧しくされている人々と生きる人間への尊厳と愛の厚みをこぼれるように受けた講演会であった。

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