「自衛」問題を考える(1973)

1973年2月10日発行「キリスト新聞」
建国記念日(戦前の紀元節)の前日の新聞掲載

(岩国教会牧師5年、健作さん39歳)

米軍からの肩代わりの方向が

「自衛」問題を考える、というテーマで橋本左内氏が本紙1月13日に書いたあと、後続バッターを編集者の方から頼まれましたので、橋本さんの論点を支持しながら、なお私なりの意見を述べてみます。

 橋本さんが、四次防(第4次防衛力整備計画)の内容を紹介し、自衛隊の現状を「海外侵略の軍隊」と同時に「平和・民主勢力に対する鎮圧隊でもある」と指摘している点、現実認識としてはずしてはならない点だと思います。また日本の自衛隊をアメリカ帝国主義の世界戦略とそれへの従属性として捉えなければならぬ、という指摘も当然であると思います。

 この点、米軍岩国基地の例を挙げれば、在岩国の対潜哨戒機P3Aオライオン9機の三沢移駐が昨年公表されましたが、それに代わって海上自衛隊のPS1飛行艇が増強されると言われています。これに関連して、自衛隊による岩国基地沖合の1万坪の埋め立て計画と自衛隊の単独使用という問題が起きています。防衛庁の埋め立て申請に、岩国市長が独断で副申をつけています。もちろん抗議をしましたが、根は深いようです。

 四次防では本格的な対潜哨戒部隊「第31航空軍」が新設されるといわれていますが、それに対応する動きが現れています。防衛庁の加藤事務次官は、1963年12月には、米軍が撤退したのちも、共同使用の名に隠れて自衛隊が使用を継続することはないという「書簡」を岩国市に出していますが、昨年8月には米軍基地が日本に返還された場合の使用については、改めて再検討するという内容に変更されています。こういったことは、米軍からの肩代わりの方向を示しています。

平和憲法体制の中身は何か

 さて、こういった自衛隊の増強を軸とした国家反動体制に対して、橋本さんは「敵に口実を与える過激行動ではなく、平和に徹した地道な平和運動こそ、権力者の恐れているところであることを確認したいものです」と言い、「平和と民主主義の憲法を武器として…運動を創り出すことです」と述べておられます。現実政治は力関係ですから、戦術としてこのように考えていくことに異論はありません。

 しかし、橋本さんのいう「平和憲法をますます前進させ」というときの「平和憲法体制」の中身を検討することなしに、戦術論のレベルでこの問題を締めくくっているあたり、あまりにも教科書的で問題を感じます。

 政治の力関係だけでは捉えられない層で、軍事国家体制が「自衛」という名で維持しているものに、われわれ自身が知らず知らずに手を貸しているのではないか、という内容的問い返しをしておかなくてよいでしょうか。それは運動の中で、という答えが返ってくるような気もしますが、橋本さんの文の中に「こうした真の平和の力を知らない、知ろうとしない、創りもしない人の中に『平和と民主主義』という合言葉は新しい状況に合わない…などという人がいます」というように、運動面における具体状況での批判を抜きにした断定を含んだ言葉もありますので、問題を感じるわけです。

平和憲法のもとで侵略が…

 平和憲法体制というものをまず設定しておいて考えるのではなくて、「自衛」という名で行われている事柄そのものから考えないと、捉えきれない面がありませんか。

 私は、米軍岩国基地のある街に住んでいますが、この基地が太平洋戦争(その頃は日本海軍)で果たした役割も、朝鮮戦争のときもベトナム戦争でも、その機能は一貫してアジアへの侵略であり、自衛隊に肩代わりされれば、同じ機能を果たすでありましょう。そして、それは日本海軍時代は別にして、現平和憲法のもとで行われてきています。

 岩国の街のことを付け加えれば、民政の面でも、学校・公民館・道路・下水道・ごみ処理場などが、基地周辺等の整備に関する法律でもって防衛庁から補助金をもらって造られています。これも平和憲法下の出来事です。多かれ少なかれ、日本全体がそうでありましょう。

 これは、平和憲法体制がまだ進んでいないので起きているのではなく、まさに現憲法のもとで起こっています。だから現憲法体制をどのように批判的に進めるのかを内容的に示さなければ、運動は空洞化します。

天皇制との対決ぬきでは…

 こういう事態がまずまず良く見えるのは、われわれよりも、この基地からの攻撃に曝され、さらに戦略的に攻撃目標に入れられているベトナムや朝鮮人民ではないでしょうか。このような事実をどれだけ自分の側に引き寄せて捉えられるかが、戦いの戦線にとって欠かしてはならない点だと思います。

 例えば、現憲法下で結構維持されている天皇制が果たしている役割を、はっきり捉えておかないならば、その天皇制によって残酷な被害を受けた朝鮮人民の視点からは、憲法体制を進める戦いも日本人の都合の問題だと言われても仕方がありません。

「自衛」は一方において「天皇制が柔軟構造として存続」(土肥昭夫氏)していることを軸として進められているのであれば、天皇制との内容的対決をぬきにして「衆議院・参議院の内外での平和憲法体制の前進」だけでは戦えないのではないでしょうか。

 自衛隊法3条1項によれば、自衛隊は「国の安全を保ち…国を防衛する…必要に応じ公共の秩序の維持にあたる…」と記されています。ここには自衛隊を支える秩序の本質が表されています。

加担しないという生活意識

「国」とか「公共」とかは、現憲法下でさえ、わずか二十数年の歴史に照らしてみて、人民の側のものではなく、支配者の側の権益や秩序に関わるものであってみれば、そのような秩序には、ぎりぎりのところで抵抗し加担しないという生活意識を具体的に持たねばならないと思います。

 平和憲法は確かに有効な武器です。が、資本・政治権力・社会体制・文化・思想・宗教などあらゆるものと結びついて支えられている軍事国家体制との対決を内容的に検討しつつ、運動を進めていく必要があるのではないでしょうか。

(岩井健作)


画像は岩国教会の近く錦帯橋の河原にて。胸に「紀元節…抗議」。紀元節は戦前の呼び名、戦後「建国記念日(2月11日)」。
error: Content is protected !!