「一粒の麦は、地に落ちて(も)死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ 12章24節)
2007.6.6 横浜英和女学院 小学校・幼稚園教師聖書研究会
(明治学院教会牧師 73歳)
ヨハネ福音書 12章20−26節 ギリシア人、イエスに会いに来る 新共同訳
(20)さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
(26)わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
1.教会に付属している幼稚園(呉、岩国、神戸)で園長を42年間してきました。
子どもからたくさんのことを学び、教えられました。
2.子どもから学んだ、言語表現の様式。
① 人格言語
② 説明言語
③ イメージ言語
3.聖書のテキストも、分析してみると、三つの言語表現があります。
ヨハネ12:20-26の場合
3-1.【20-25】節。説明言語(記述、叙述)
「祭り(神を求める時)にギリシア人がイエスに会うことを求める」
(本来「神の民」のユダヤ人は何をしているのか。痛烈な批判)
イエスの答え「一粒の麦は、死んでこそ実を結ぶ。自分の命を愛する者(自分本位)は「命(関係)」を失う。自分の命を憎む(意志的決断)人は命を保つ。説明で事柄を述べる。分かる人は「頭」で理解する。内容的には、イエスご自身の十字架の死の事を言っている。大変重い話。でも言葉で語られている。
3-2.【26】節。人格言語(命令形で迫る)。
「わたしに従え、そうすれば……」
命令形に結果が続く。逆ではない。
説明言語で言われている内容は、自分でやってみなければ分からないということ。
言葉を脱して、行動を通しての体得の部分。
3-3.説明言語も人格言語も大変に重い事を言っている。しかし、それを語るのに「麦」というイメージが用いられている。
このイメージで、
① 説明されたことを内実化する、比喩は違った世界のことを内面的につなげる。
②「死」という非常に重たいことを、もっと大きな「命」(実を結ぶ)に包んで語る。
「説明言語」も「人格言語」のデジタル(指し示す)な語り方。
「イメージ言語(象徴言語)」はアナログ(類比)の語り方。
4.聖書からイメージを読み取ることの大切さ。特にヨハネ福音書はそのような語り方をする(パン、水、羊飼い、葡萄の木、小羊、風、道)。