体感としての戦後キリスト教(2007 福音と世界)

「体感としての右傾化とキリスト教」(2)
「福音と世界」2007年8月号原稿

体感としての戦後キリスト教 - 「体感としての右傾化とキリスト教」(2)

前半「たとえ「九条の葬式」に居合わせようとも」を読む


2、体感としての戦後キリスト教
『日本基督教団史資料集』(全五巻)は僕にとって興味つきることのない座右の書の一つである。第五巻の年表をみていると、その年のもろもろの出来事の最後に「この年に創立された教会」の創立月日と教会名が教団創立の1941年から1968年まで全部載っている。因みに日本基督教団成立の1941年から太平洋戦争敗戦の1945年までの五年間に創立の教会は9教会である。戦後の伝道が始まるとキリスト教には追い風が吹いて46年は43教会、47年は48教会、49年は54教会と確実に増加してゆく。が、50年代前半は沈静化して平均すれば年36教会、50年代後半は年平均29教会と落ちる。60年代に入ると、68年までの平均は年11教会となる。

 私が中学一年で洗礼を受けた坂祝(さかほぎ)教会(現在、中濃教会、中部教区)の設立は敗戦翌年46年、その創立月日は私の受洗記念日でもある。私の体感に残る戦後キリスト教は勢いと希望があった。「坂祝」は賀川豊彦の昭和初期の農民福音学校の系譜を引く開拓農村伝道であったことにもよるであろう。「農」をもって国を興すという理想があった。

 戦後の日本国憲法制定による価値観の転換も背景にあり、帰還軍人が払い下げの飛行場跡で「剣をうちかえて鋤となし」(イザヤ 2:4)と生活は苦しかったにもかかわらず希望に生きていた。讚美歌(54年版)372番「ひたいを落つる 玉の汗」がおじさんたちによって熱っぽく歌われた。僕が「教団」を意識したのもこの頃であった。
「新日本建設キリスト運動」が展開され、賀川豊彦が村の小学校の講堂で300人もの聴衆を集め、「文明は尻拭き文明」だと「贖罪論的愛」の説教を雄弁に語った。

 親父(岩井文男)は教団の農村伝道特別委員会委員に選ばれ、上京しては、農村伝道の将来を語っていた。しかし、戦後キリスト教の屈折点はいち早く農村教会に忍び寄った。
 朝鮮戦争を契機にして、日本が軽工業から重工業へと復興を深め、工業と農業の経済的格差が広がり、農村の衰退が進むと農村伝道・農村教会も勢いを失い、教会の経済的自立を阻まれ、教会の都市への集中が進んだ。


 農村伝道への志を心の片隅に抱きながら、僕は同志社神学部に進んだ。大学は「全学連」の主導のもとで学生運動が盛んであった。高校時代に農村と都市との経済の二重構造や朝鮮戦争以来、右傾化した保守政治の中、尊敬していた高校社会科教師がレッドパージで追放された体験がきっかけにあり、京都では「破壊活動防止法案反対闘争」など学生の政治闘争に加わり、キリスト者平和の会に参加した。出席教会の牧師、信徒はこのような平和、社会的活動には冷ややかで理解はなかった。

 その頃(1954年)「教団信仰告白」が制定されたが、「非信条(ノンクリーダル)教会」の伝統に立つ教会にいたことや、信条制定の歴史的経過が「教会の離脱問題」の文脈にあることなどを学び、かつそれぞれの歴史的に状況との関わりで必然性のある信仰箇条が非歴史的に平板に教義化されて並べられ、いわゆる網羅された教理体系であるということが、自分の主体的信仰との関わりを促さなかった。


 やがて神学校を卒業し西中国教区の教会に赴任した。ここで改めて、教師として「教団」に出合った。その教団は、いわゆる「教勢拡大」が社会状況で頭打ちになったことからの反省で、従来の中産階層への照準を社会大衆へとシフトを移し、労働者階層への職域伝道を組織的に展開し、その意識をもつ教会が点々している教団であった。その頃、日本の世論を大きく分ける「60年安保闘争」が戦われていた。教団は「宣教基本方策」を制定(1961年)した。
 当時西中国教区は、広島原爆の日を教団の「平和聖日」とすることを提案し、可決され、「憲法擁護声明」が宣教研究所名で出された(1962年)。その声明文の非主体的・歴史意識のないのに驚いた。当時の「基督教新報」(3422号)にいささか批判めいた「論説」を指名されて「現場」から書いた。

「宣教基礎理論」が協議され「体質改善と伝道圏伝道の推進」(1963年)が実施され、社会的発言としての声明も出された。「国民の祝日に関する改正法案反対声明」(議長名 1963)。僕の現場、岩国では、社会党、共産党、地区労、キリスト者、四者で「岩国基地撤去」運動が組まれ、「戦争放棄の平和憲法」の下で米軍基地を日本に存在させている「日米安全保障条約」への矛盾を鋭く問う戦いがなされていた。基地を含め社会への関わりは、教会の信徒が直接行動を共にしなくても、牧師と信徒の教会的コンセンサスはあった。これは、岩国教会の前任者高倉徹牧師、近隣教会の杉原助牧師の宣教・牧会姿勢に負う所が大きかった。


 教団が、いわゆる教勢拡大の布教を主眼とすることではなくて、社会の問題を共に負ってゆく教会の質的深化へと舵を徐々に切りつつあった背景には、世界教会協議会(WCC)の動向とも関係があったであろう。当時、若手教職の間では「カール・バルト」と並行して「ディ−トリッヒ・ボンへッファー」が読まれ、「世に仕える教会」という言葉は一つのスローガンであった。教団ではジョン・ベネット、マーシャル・スコット、ヘンドリック・クレーマーと言った神学者が招かれ、教会の社会的責任、職域伝道、信徒の働きなどへと現場の教会への喚起がなされていた。駆け出しの教職は直接にこれらの諸協議会に出る機会はなかったが、戦後すぐの状況とは明らかに異なる雰囲気が先輩から伝わってきた。


 ここから先は、簡潔に叙述をしたい。
 このように「世に仕える」と言えば言うほど、気になるのが、第二次大戦下に於ける「キリスト教」の戦争協力であった。その責任を明確にしない限り歴史認識のないゆえに「世に仕える」ことは実体を持たないことになることを痛感した。
 当時かなりの戦争責任についての歴史研究が積み上げられていた。第17回教師講習会の席上僕は声をあげた。大塩清之助、内藤協、渡辺泉諸氏などが一緒だった。結論からいうと1967年春「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」が議長鈴木正久氏によって公表された。前年の第14回教団総会において、そのための建議がなされたが、建議者は友人渡辺泉氏で私は同意議員の一人として名を連ねた。

 ここで忘れえない出来事がある。戦争責任の謝罪は神とアジアに向けてなされた。沖縄から講習会に参加していた山里勝一氏は「沖縄はどうなるのか」を問うた。鈴木氏は「研究会」を立ち上げ、それは1969年「沖縄キリスト教団との合同」に結実した。しかし、沖縄と本土との関係史に於ける本土の差別、切り捨て、抑圧の罪責自覚と歴史認識がなかった。これは後「合同のとらえなおし」の課題として深化することになった。私も以来本土教団側の役割を負い続ける羽目になっている。他方、1968年前後の世界的学生運動からの既存の体制にたいするラディカルな問題提起運動は日本の大学に伝わり、日本基督教団においても「万博はアジアへの経済侵略への荷担である」と学生・若手教職の「万博キリスト教館出展問題」への問題提起となって現れた。関連してほとんど今まで無自覚であった「教師問題」「会議制」「宣教の問題」が問われた。さらに「パウロ主義批判」「宗教批判」が東京、大阪を場に研究討議された。体制側はこれを「教団紛争」と呼んだが、それは単なる紛争を超える歴史的意味を担っていた。その意味が分からないわけではなかったが、地方都市で小さな教会の責任を持っていた私は、それらの運動には直接参加する余地はなかった。地味に「教団の体質改善路線」を地方教会で歩んでいた。全体教会としての教団は「問題提起者」の意を受けつつ、見直すべき課題に取り組んでいった。それは神学・理念から現実を、という方向ではなく、歴史的現実の重荷を共に負うことから思考をという発想の転換であった。個別の差別、抑圧の現場を地味に共に生きることが少しづつ根付いて行った。

 教団はすでに「戦責告白」を巡って、「保守派」はかたくなにそれを拒んだ。戦時中と言えども「神の教会」に過誤はなかった。戦争協力という倫理に於ける過ちがあったとしても、それが「教会の生命」の問題ではない。「戦争責任」という発想そのものもが世俗であるとの論理であった。後、この力が、教団政治を票数という力で動かし、「問題提起者」を徹底排除して、教団の政治的正常化、「教団信仰告白」堅持の神学的正常化を成し遂げるのである。1990年代に入ってである。
 以後は、車の逆落としの如く、教会の「自己保身」が目立ち、日本社会の保守化と相関関係があるかのように、社会的働きからは身を引いて行くことになる。政府の右傾化・非人間的政策に対する「声明」なども、おざなりのアリバイ証明に終始し、「言葉が命である」教会の迫力は微塵も感じられないのがありのままの現状であった。
 ただ各個の教区、各個教会の中にははそれなりに「戦争責任」の自覚にたって宣教活動を営んでいるのが実情である。またキリスト者個々人の実存に基づくつながりは珠玉のものと言えよう。


 紙数がつきたので将来への展望は思いを述べるにとどめる。
 教会は概念や観念体系の閉鎖性が先行する教理を歴史的文脈での検証なしに共同性の根拠とすることを再検証しなくてはならない。歴史学としての聖書学の成果を受け入れ、差別、抑圧、貧困、排除の現実にある弱者としての民衆と共に生きる視点を持って、聖書の読み方の変革を草の根の「キリスト者」が手をつないでなしてゆくことを目指すべきではなかろうか。そのような共同の営みを絶えず続けることで、世界の民衆の教会と連帯をしてゆく所に希望が与えられるであろう。

(単立明治学院教会牧師)

教会の戦争責任とわたし(2005 講演)