たとえ「九条の葬式」に居合わせようとも(2007 福音と世界)

「体感としての右傾化とキリスト教」(1)
「福音と世界」2007年8月号原稿

 編集者の執筆依頼は「右傾化の時代の中で」と題して、「戦後日本のキリスト教の歩みを振り返り、現在の諸相との関連で新しい傾向を探る」ことである。

1、たとえ「九条の葬式」に居合わせようとも

「私は、『右傾化の時代』を、憲法第九条の葬りが現実となる時代と捉えたい。〈戦後〉という呼び名は〈戦後60年で終わりである〉、そんな思いが強くなるばかりだ。願わくば、あらたな戦前になっていないことを祈りたい」とは政治学者・姜尚中氏の言葉である(姜尚中×吉田司対談『そして、九条は。』昌文社 2006.2)。

 彼は政治の流れをこう分析する。憲法体制と安保体制とが綱引きをしてきた保・革共存の55年体制を崩し、小選挙区制の実施、国鉄民営化による労働組合の主力の解体を経て、土井護憲体制を無力化し、9.11衆議院総選挙を「郵政民営化」のワンフレ−ズで演出し圧勝して、戦後民主主義のグランド・ゼロを創出し、岸信介以来傍系であった右翼ナショナリズム、かつ新自由主義の役者たちを政治の本流に躍り出させたのが、小泉政権であったと大まかに論じる。その後の安倍内閣に、我々は今「右傾化」をよくぞここまでと向き合っているのである。

 安倍首相は国会で「戦後レジ−ムからの脱却」を声高に表明し、三つの枠組みからの脱却を実行しようとしている。

 第一、権力者を縛る「近代立憲主義」憲法の枠そのものからの脱却。当然まずは受け皿として国家に従順な「国民」の創出のための「教育改革」をと伴った上で、「改憲」どころではなく権力者の「“欽定”新憲法」の制定である。

 第二、は軍隊の保持。自衛隊を「密教」から「顕教」に位置付け、米国の世界軍事戦略の転換(トランスフォーメイション)と一体となった「国際貢献」を実行する軍事体制作り。国内の法整備はほぼ終わって、あとは治安を強化し国民をしばる「共謀罪」法案が日程に上がっている。

 第三は、「人権」の制限。国家・公共(実は「勝ち組み」)を軸として、すでに骨抜きにされた労働者大衆を、新自由主義市場経済の「学理」にあわせて「低位平準化」して使い捨てる体制。「経団連」の方針に呼応する。厳しい格差社会の是認が前提となる。

 姜尚中氏は「人間が砂粒化してゆく背景の中で全体主義が頭をもたげてくる」というハンナ・アレントの言葉を引いて「逆全体主義の時代」だと名付けている。さらにこの時代を「人間はもはや搾取の対象でさえなくなった、いまや人間は排除の対象になった」(V・フォレステル)といわれる現実を認識しなければならないのではないか。

「国民」が主役の「立憲主義」には思想・信教・言論の自由が欠かせない。それは闘いの武器である。が、マス・メディアの権力・財界からの距離の保ちかたは決して頼りになるものではない。例えば、市民が自発的に「反戦平和」を訴えたデモなどであっても余程の規模でも、情報としてすら取り上げられない。「また左翼か」という、イデオロギー的雰囲気をパターン化したいわゆる「反体制」側の責任もあることながら、マス・メディアそのものの「権力化」を憂うる。広告など資金の関係に左右されるとしても気骨を期待したい。

 例えば、「国民投票法案」にしても、可決された当日全容を報じる。日弁連の資料がなければ我々は学習すら思いのままにならなかった。勿論良心的ローカル紙や奮戦する記者は存在する。しかし大方の「社」の方針は、理想を旨に「九条に思いを馳せる」民衆を育てるわけではない。現実主義者に荷担する方が安易であろう。


 しかし、このような「憲法九条のなし崩し的“葬式”」にでも「国民」は決して無自覚ではない。自らが、心ある人に繋がって、学習し、行動を模索し続け、一人一人の主体性で生きている層は存在する。私自身も手をこまねいてこの状況を見て評論しているわけではない。


 首都圏に生活するゆえか、今国会開催中、衆議院議員会館前での「抗議」行動へは他用を兼ねて時折参加した。

 米軍再編に伴う新しい米軍基地建設を阻む熾烈な阻止行動が沖縄・辺野古では住民により続けられている。その支援で「辺野古への基地設置阻止」の東京座り込みが、山口明子さんなど週何回か、神奈川「うねりの会」の女性達も加わり行われている。

 国会前には今「9条改憲阻止の会・連続ハンスト座り込み」の人達が座り込んでいる。「60年安保世代」である。

 私が暮らす鎌倉では2月、3月、4月と駅前街頭で「シール運動」をノンセクトで活動する年配の人々十数人(教会関係者もいる)と行動を共にした。元岡山大・野田龍三郎教授の提案で、街頭で、あるテーマについて「賛成、反対、分からない」の意思表示をシールを貼る事で表明してもらう緩やかな運動である。全国一斉7、80か所で行い、マス・メディアを通じて世論にアッピールする方式の運動である。街頭行動では署名よりもソフトでやりやすい。シールの結果はほぼ80パーセント台が主催者の意図が汲んでくれて、好意を示す。例えば、米軍再編特別措置法、国民投票法、憲法9条。日常から遠い主題であるのに、予想以上の反響があることに、幾許かの希望を抱く。

 神奈川では、座間で「第一軍団司令部はこないで!」と「バスストップから基地ストップの会」の女性たちが毎週基地前バス停で座り込みを続けている。

 沖縄では、防衛施設庁が辺野古海底調査を始めた5月19日には困難な阻止行動の中から「基地建設阻止おおかな通信」が配信されていた。防衛「省」が海上自衛隊の掃海艇「ぶんご」を横須賀から辺野古の海へ導入したことについて、「国の逆切れ」だと書き、「人の心を信じ、平和を信じ活動する市民がいる事を否定したいがために暴力をもって臨んでくるのだ。私たちは、愛する日本には暴力に頼る国になって欲しくないということを命を賭けて訴えをしているだけです」と述べている。「九条2項のある憲法」「人の心を信じる憲法」から「民衆に軍隊を向ける戦争憲法」「暴力装置を使う憲法」への転換を何とかして「阻止」しなければ、との思いをこの言葉は促していた。何故か。非暴力は命の関係が前提であるが、暴力とは命の抹殺が前提になっているからである。

 現憲法に則していえば、我々には希望がある。憲法は第二次大戦で失われた命の代償である。この憲法を実現する事で、失われた命との関係を現在化できる。スピリチュアリティー(霊性)、すなわち「命の関係の現在化」がある。自由民権運動の植木枝盛以来、地下水のように受け継がれ、憲法学者鈴木安蔵らによって獄中に於いてすら熟成されてきた思想が曲折を経て「日本国憲法」に定着した事は、憲法学の定説であり、「押しつけ憲法」は皇国史観に立つもののプロパガンダである。惑わされてはならない。

 さらに憲法は世界の人民、民衆、市民の長年の「人権」の戦いの歴史的遺産である。切り倒されても、切り株が芽を吹く様に、われわれの内には受け継がれてきた命が、関係の現在化として生きている。また、我々には、虐げられても、権力や暴力と向き合って戦う世界の民衆との命の繋がりがある。「右傾化の時代」たとえ「九条の葬儀」に居合わせようとも、九条(特に第2項)には、逆説的命がある、それは「死んでいても、生きている命」である。

(続き「体感としての戦後キリスト教」を読む)

error: Content is protected !!