2007.7.1、明治学院教会(79)、聖霊降臨節 ⑥
(牧会49年、単立明治学院教会牧師 2年目、健作さん73歳)
”主に向かってわたしは歌おう。”(出エジプト記 15:1、新共同訳)
”わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。”(エフェソの信徒への手紙 1:3、新共同訳)
1.教会は最初から歌う共同体だった。
この伝統は詩編から受け継がれている。詩編の「新しい歌」は、イスラエル民族のバビロニア捕囚後、歌声をあげて苦難の歴史を乗り越え、救いの体験をしたことの表現。
人生の苦難を「讃美歌」を歌うことによって、乗り越えてきた人の体験は多い。
会堂で独り歌を歌う婦人。阪神淡路大震災の時の関西学院の聖歌隊の経験。
2.「礼拝」と「宣教(生活)」は、教会の生きた姿である。
「集められた教会、散らされた教会」(2007年 宣教方針)というスタイルで表される。
讃美歌集も「礼拝の歌」「宣教の歌」に分かれる。
「讃美歌21」は7項目のうち、Ⅰ〜Ⅳは礼拝(398/500)を、ⅥとⅦは生活がテーマ、Ⅴ(教会)はその二つを繋いでいる。
礼拝は、神から人への方向(招詞、聖書朗読、説教、祝祷など)と、人から神への方向(感謝、讃美、告白、祈願、懺悔、執り成し)に象徴される。
何故みんなで歌うのか。
それは教会が「体(共同性)」であることの証し。
パウロは弱いところにこそ繋がり(共同性)が現れ、役目の異なる者がなお互いに一つの体である(終末的希望)ことの意味を語った。
歌を歌うことは、その共感(コンセンサス)を共にすること。
3.「エフェソの信徒への手紙」は、初代の教会が少し整って礼拝式が重んじられた時代のもの。
3章までは大変荘重な文章。後半4章以下は、信仰の生活が説かれる。
”「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」”(エフェソの信徒への手紙 5:14、新共同訳)
これは初代教会の洗礼式の歌。基本的に肯定的。苦難を克服する力がある。
4.今日、朗読されたエフェソ 1:3-14は、父・御子・聖霊の神をほめたたえる構造。
「讃美せよ、ほめたたえられますよう」 (”エウロゲートス”、エフェソ 1:3)、「神の栄光をたたえる」(”エパイノン•ドクセース”、エフェソ 1:6, 12,1 14)はユダヤ教の讃美の定式。
教会は定式を形骸化しないで、生活化した。
5.黒人解放者のM.L.キング牧師は、説教「真夜中に戸を叩く」の中で、黒人霊歌(ニグロ•スピリチュアル)の意味をたたえている。
日本でも教会への参加者に比べれば、聖書人口や讃美歌人口は意外と多い。
鶴見俊輔さんと永六輔さんが「歌を通して語る日本人のこころ」という対談(『日本人のこころ』所収 岩波書店 1997)の中で、立場以上のものとしての歌の思想性を語っている。ここは大事だ。


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