教会の戦争責任とわたし(2005 講演)

2005年平和講演会 於日本基督教団港南台教会
 ミカ書 4章3節 「剣を打ち直して鋤となし」

横浜港南台教会 社会委員会通信 2005.9.4 所収

1 .はじめに
 はじめに自分自身についてお話させていただきます。僕は牧師の家庭に生まれました。戦争中も家庭によって随分差があったようです。軍国主義教育を親からガミガミ言われた子もいますが、僕のところはそういうことはありませんでした。それから日曜学校の先生のことを思い出すのですが、今から考えると、クリスマスの劇は反戦劇でした。そのようなものを1942年-43年にやらせたのです。 あまり自覚はなかったのですが、国民学校では軍国主義を叩き込まれました。しかし、戦勝祈願の氷川神社参拝などには、いささかの遼巡と抵抗めいたものを子どもなりに感じて行っておりました。
 中学から高校時代についてですが、高校の社会科教師が、とても良く社会の構造を教えてくれました。家で農業をやっていたものですから、何でこんなに農村だけが貧困なのかを感じておりました。サツマイモを作っても、本当に工場の日当に比べたら安いのです。そういうことを社会科の教師に尋ねたら、実に丁寧に説明してくれてなるほどと思ったのですが、その先生はマルキストだったのでしょうか、案の定レッドパージで追われてしまいました。それがまた権力の構造を分からせてくれました。
 大学に入ったのは、1950年代です。神学部ですから、そんなに派手なことはできません。神学部長が京都の公安委員長で、「適当にやれ」と言うので、適当にやりました。私は同志社ですから、京大ほど激しくありませんでした。それでも結構適当に学生時代を送りました。
 牧師になってからですが、広島、呉、岩国の教会で牧会歴20年です。広島で原爆のことを知り、本当にびっくりしました。呉はあの当時、海上自衛隊の軍艦旗がなびいていて、すごいな思いました。
 それから岩国に行き、ちょうど70年代のベトナム戦争の時期で、米軍基地にからみ随分勉強しました。教会にいわゆる反戦米兵が転がり込んできたりしました。鶴見俊輔さんとか、小田実さんなど反戦運動の士が岩国に来るものですから、そういう人たちの後にくっついたりしました。その時に知ったことは、黒人兵はアメリカ社会では差別されていますから、戦争が終わっても安心して帰る所がないということでした。
 また、アメリカの反戦活動家や米兵から「自分たちのベトナム反戦子動を手伝うのはいいけれど、それよりもあなた自身が日本の平和をどう考えるのか。そういうことを一生懸命やったらどうか。自分のことをやりなさい」というようなことを随分言われました。
 そのあと1978年から神戸に来ました。神戸ではあの阪神大震災を経験させられました。この地震の話をしたら、本当に一山あるのですが、これはまだ終わっていません。今日は貴重な時間ですから、日本基督教団のことを話します。

2.「教団の歴史」「宣教基本方策」からの学び
① 日本基督教団とは
 ご存じのように、日本基督教団とは、1941年に日本におけるプロテスタント系30余派(余派というのは、教派と数えていいかどうか分からないものがあるので余派としたのですけれども)、2300余の教会が1939年に公布された宗教団体法(戦時体制に宗教を国家協力させるための法律)に基づき(を契機として)合同して成立した合同教会です。この「契機として」という文言は、結局「戦責告白」では「契機」になったんです。「戦責告白」の中段に「この政府の要請を契機に教会合同にふみきり」とありますが、契機なんていうものではないと思います。「脅されて」ということです。

 確かに内発的な要因として、教会が一緒になったのは事実です。けれども「教団」という呼称は文部省がつけた名前です。先日、沖縄に行きましたら、大城実先生が「『教団』でなければいけませんか」と言われましたが、沖縄は「日本合同キリスト教会」という名前をこの間の総会に出したのです。「教団」とは国家がつけた名前だから、一度取りましょう、というのがその主張です。私たちは無意識に日本基督教団なんて威張って使っていますが、「教団」と言う時は、括弧に入れて使わなければいけないと思います。

 私は、この箇所は「基づき」だと思います。「契機として」なんて問題じゃない。それで過剰な戦争協力をします。鈴木正久牧師は口の悪い人で「教団は国家に対するエロサービスをしたのだ」などと言っていますが、私の言葉では過剰な協力です。この辺りは同志社の歴史の教授・土肥昭夫先生の『歴史の証言』に詳しく出ています。教団史料編纂室からも分厚い資料が5巻出ています。

② 激団の戦時目標への協力の緒活動
 1944年4月11日の「日本基督教新報(今の「教団新報」)」に「日本基督教戦時布教指針」「東京教区の国民義勇隊結成」「靖国の英霊」が掲載されています。不覚にも私は知らなかったのですが、最近出版された『靖国神社』(ちくま新書)に、著者・高橋哲哉氏がこの「靖国の英霊」の全文をバッチリ引用しています。それを読むと、ここまで国家に協力したら、日本基督教団は靖国反対なんてとても言えません。それはどういう観点からかと言いますと、血を流すことによって国家に尽くすということです。血を流すということは、キリスト教の専売特許です。「イエスが血を流して贖い給うた」という、ヘブル書の9章14節を使って、キリスト教がどんなに靖国の血に精神的意義を与えているかを言っているのです。これはすごい文章です。

 「血」と言う時、われわれは当然「キリストの十字架の血」を思いますが、それをイコール靖国の兵士が流した血に結びつけているのです。観念化された教義はどのようにでも用いられるのですね。

 その次は、1944年復活節に出された日本基督教新報の悪名高き『日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰』です。これは一度お読みになるといいと思います(前記『資料集』第2巻 p.316)。これはフィリピ書になぞらえた書簡の形式です。そしてこれはカール・バルトのフィリピ書を訳した人が書いたのではないか、と最近その文体研究をしている方がいます。その訳者は日本の優秀なバルト学者です。「アジアの兄弟よ」と呼びかけ、大東亜戦争が聖戦であり、欧米の植民地主義に対して、いかに民族の独立を図るかということを、フィリピ書のバルトの翻訳になぞらえて1章から4章まで書いているのです。本当に愕然とします。

③ 戦後教団の再発足
 1945年、宗教法人令により離脱した教派が多数ありました。これは外国との資金の関係がほとんどだったと思います。バプテスト派とかその他諸々。バプテストは教団の中に一部残りますが、主として日キ・組合・メソジストという大教派が残ります。

 教団として戦後再出発するわけですが、一緒にやっていこうというエキュメニカルな動機が戦争中にも拘らずあったことを摂理として生かしていこうということです。肯定的に考えれば逆説的な摂理です。「日本基督教団」というものをごくあたりまえのように頭にくっつけて「日本基督教団横浜港南台教会」と呼んでいますが、複雑な思いがいたします。
 教団指導者の戦争協力は免責されます。これはどういうことかと言うと、米国は占領軍の戦後政策に、これはマッカーサーですけれど、天皇の戦争責任は関わない、それで日本を治めるという方針を決めます。その方針との関連で、キリスト教の戦争責任も問わない。賀川豊彦あたりがアメリカに対して文句を言ったことについて、多少責任を関われたことがあるのですが、それ以上のことはなかったわけです。それでキリスト教を戦後日本の支配政策に利用することとなったのです。

 ただ、青年教職は、戦争中伊勢神宮に参拝して戦争協力した人が、戦後は平和のキリスト教であると言うのは我慢ならないということで「福音同志会」を作って、戦時下の議員は交替すべきだということを1946年3月に言うわけです。この若手教職の中に、鈴木正久とか浅野順一という人たちが入っていたわけですが、これは主流にならず実らなかったのです。このことは、鈴木先生が、あとで僕らが「戦責告白」をガミガミ言った時に受け止める素地であったと思います。

 敗戦以後、根本的な反省を経ないままキリスト教ブームに乗って、教勢の拡丸志向、つまり300万人救霊ということで300万人をキリスト教にしようという「新日本建設キリスト運動」を展開しました。僕も中学生のころ、田舎の教会でしたが、村中にピラを貼って回ったことを覚えています。

 しかし、信仰告白がきちんとしないまま来てしまったのでは、自分たちの教会として、この中にいることはできないということで、旧日本キリスト教会が離脱します。小野村林蔵先生と植村環先生などですが、旧日本キリスト教系の先生で、抜け出た教会と抜けなかった教会があります。抜けた方はいわゆる新日キと言って、日本キリスト教会という教会を作っています。

 信仰告白が制定されていなかったということで、すったもんだ言いながら、1954年に教団の「信仰告白」を制定します。信仰告白というのは、普通状況に対してキリストを証するのが基本姿勢なのです。例えば「イエスは主なり」というのは「キュリオス・イエスス」と言うのですが、これは「キュリオス・カイサルス」(= 「皇帝は主なり」)という向こう側の告白があって、それに対して「キュリオス・イエスス」なのです。だから戦いの印なのです。

 ところが、この日本基督教団の信仰告白は、全く戦いの印ではありません。教団が信仰告白を持っているのは、アリバイ証明です。実に良くできています。歴史の中のキリスト教信仰の要点を全部入れています。例えば義認、義とされることと、潔められていくという聖化。義認と聖化なんて同一の教義ではないのです。聖化のためにメソジストなどはものすごく戦ってきたし、義認のためにはルター派やカルヴァン派など随分戦ってきました。そういうものが歴史の背景なしで全部並列して入っているのです。 これをまとめたのは、北森嘉蔵教授という東京神学大学の本当に頭のいい、西田哲学の系譜にある先生です。僕らはこれができた時、北森先生からこの信仰告白の講義を受けました。本当に良くできていると感心しました。でも、あとから考えてみると、これは状況に対する告白ではなくて、教団をまとめたものだということが分かつてきました。この信仰告白に対して、状況に対する告白として「戦責告白」が存在するわけです。

 300万人救霊運動は行き詰まるのです。朝鮮戦争が行われた1950年代ごろから行き詰ってきます。例えば十字架のイエス・キリストの贖いが罪の救いとなり、赦しになって救われるという、一つの考え方の中に入ってきて救われる人も確かにいるのですが、それでは限界があるということです。そして教団は「社会大衆への福音の浸透」を可決します。朝鮮戦争を契機として、キリスト者平和運動などが起こってきたわけです。それで宣教理解を少し変えなければいけないということで、クレーマーという人を呼んで協議会をいたします。そして日本基督教団の宣教理解が変化するわけです。

 戦時中、「教義の大要」を布教、宣布することが日本基督教団の目的であるとまとめていました。しかし、その教義の言葉を相手に教えて、悪い言葉で言えば、一つの観念形態の中に人間を取り込むことが宗教であるならば、極端に言えばオウム真理教と同じことになってしまいます。そうではなくて、教団の宣教方針は「この世の悩みと共に一緒に生きる」というように変化してきます。これは1950年代頃です。

3.戦後教団の宣教理解の変化
① 教団宣教基本方策からの影響
 「日本基督教団の宣教基本方策」が1961年に出ます。俗に体質改善論と言われるもので、この中に全文と経過が載っていますが、「宣教とは何か」という箇所の一部を引用します。「和解のみわざをなされることに信頼をもち‥」、これは神がイエス・キリストにおいて人間の罪との和解を成し遂げられた、そのことに信頼を持つということです。「私たちの隣人に対して人格関係を挑むこと」は、そこに信頼関係とか人間関係がなければ、どんな言葉を言ってもどうにもならないということですが、これを書いた人も、人格関係、を挑むなどと本当にこなれない言葉を使っています。僕らが若手教職の時に、これを缶詰にされて教えられましたが、「人格関係を挑むとはどういうことでしょうか」と質問したものです。そうしたら「それは人格関係を挑むことだ」と。挑むなんてあまり上品な言葉ではないですね。
 「従って宣教は、この世の現実の中で隣人と生活を共にし、重荷と弱さを共にしのび、世の罪とキリストによる神の国の希望に対して連帯責任を負う生活の中で遂行されます」 。重荷を一緒に担って、しかしその罪の中にもキリストによる神の国の希望があるのだということを、言葉でなくて背中で示さなければなりません。渡辺英俊さんが最近『地べたの神』 (新教出版)という本を書きましたが、言葉は身体を通して示さなければ意味がないことを言っています。「言葉による宣教は、このことと結びついてその威力を発揮するのであります」。これを1961年に言っているのです。
これは「宣教基礎理論」の中にあります。

② 激団の諸声明
 このころから教団は、世の中の問題に対して声明だけでも発言していこうということになりました。やはり憲法は守っていくことが大事で、1962年に「憲法擁護に関する声明」を出します。1963年には、2月11日の祝日に対する「国民祝日改正法案反対声明」、「靖国神社における第2回戦没者追悼式施工抗議声明」を出します。その頃「ベトナムに平和を求めるキリスト者緊急会議」より米国に平和使節を5名派遣しています。そして「社会活動基本方針」を1966年に制定します。
 われわれは、社会のことを一緒に考えていくということを通して、キリストの和解の福音を宣ペ伝えていく、これを「宣教」という言葉で表していこうということです。「伝道」というのは、どちらかと言うと、個人的な人格関係の中で、言葉による伝達と言えます。「教育」というのは、教育の領域を通して人格形成を証していく。「社会」というのは社会的な実践や活動を通して証していくというように、伝道・教育・社会、この働きを全部総合して「宣教」と言っているのです。それでいまだに教団は、宣教委員会の中に教育委員会、社会委員会、伝道委員会を置いています。

4.第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」が公にされた経緯
①第17 回夏期教師講習会と研究会発足
 僕らはこのような1960年代の日本基督教団の教師試験を受けて教師になり、教会に遣わされ、ごく初期のうち、こういう教団の宣教方針の中で宣教していくということを教育され、歩んできました。しかし、過去の戦争について協力したのは過ちだったということを、日本基督教団としてきちんと言ってほしいという願いがあったのです。これがないと、本当に性根が入らないという思いがありました。

 僕は岩国教会にいたのですが、若手教職の17回目の夏期教師講習会に、僕と西中国教区から藤田祐さん(最後は小田原教会)などが参加しました。「あさかぜ」 という夜行列車の寝台で一晩考えたのです。教団の全体の集会には若手などは出られないので、沢山のお偉いさんがいるだろうから、このチャンスにそこへ行って「どうしても戦争責任告白を出してくれ」と言おうと腹を決めて行ったのです。東京や他からもそういう仲間が集まって、ガミガミ言ったので、鈴木正久校長が「それはちゃんと受け止めよう」ということで、委員会を作ることになりました。その折、山里勝一さんが沖縄キリスト教団から参加されていて、「沖縄への責任はどう扱うのか」という問題提起をしました。鈴木校長は当時教団の伝道委員長で、すぐに沖縄キリスト教団との合同を推進する研究会を発足させます。

 それで第14回総会に向けて「戦責告白」を建議しようということになり、講習会の運営委員の渡辺泉、岩井健作、山岡善郎、大塩清之助、内藤協、及び鈴木正久が10月の総会に建議8号「戦責告白を公にする件」を上程します。今の「戦責告白」の本文は、東京で鈴木先生や大塩先生が関わりました。この建議案の前文は、僕や山岡さんや渡辺さんが関西で書きました。そして建議9号「沖縄キリスト教団との関係につき研究開始する件」も共に常識員会付託になりました。

② 「戦責告白」可決
 鈴木先生が「戦責告白」を出したのですが、常識員会で賛成19、反対2 で可決されました。そして1967年3月26日、かつての復活節に「大東亜共栄圏に送る書簡」が出されたその罪を償うため、この日に出されたのです。鈴木正久先生は、すごくせっかちな方で、ものをどんどんやって敵を作ることが上手な人です。
 この「戦争責任告白」は、韓国、台湾、フィリピンなどアジアの諸教会から積極的に評価されました。大村勇先生が議長で韓国の教会へ行かれた時、長老教会から日本の代表を総会に入れないと言われ、採決したらちょうど半々で、議長の裁定でようやく大村先生が中に入れたのです。「戦責告白」を出した教会だから、それを和解の印として受け入れたのです。そういう意味でも「戦責告白」は役割を果たしています。若手の教職や、少なくとも教団の基本方策をやってきた連中は「教団信仰告白」は非状況的で、状況に対する告白ではなくて、教団のまとめの告白であると思っていましたから「戦責告白」は教団の非状況性を補うものとして、若手教職、信徒からは支持されます。

5. 「戦責告白」への反発と支持。二つの流れ
①「教団の現状を憂い鈴木識長に要望する書」
 ところが、たちどころに反発が出ます。常議員会では反対2票でしたが、教団の中はそんなことではありません。「教団の現状を憂い鈴木議長に要望する書」が1967年5月、湯川文人牧師以下26名の教職によって出されます。この要望書の論点は、「戦時下の教会は戦争に協力したと言っているが、政府の圧迫で苦闘もした。それを戦争協力の面だけを見ているのはいけない。当時の歴史意識で考えよ」というものです。「当時、キリスト教が生き延びるということがどういうことだったか。そうでなければ壊滅させられていた。みんな殉教していたに違いない。その歴史意識で考えないで、あとになって戦争に協力したのは悪かったというのは、けしからん」という主張です。

 1967年当時、日本の国では一般にも戦争責任ということが言われだしました。美術界も教育界もそうです。そういう一般社会の政治潮流に乗じ過ぎではないか。60年安保の時です。挫折経験もありますが、日本の国で青年たちが随分問題提起をしている時ですから、そういう潮流に乗じ過ぎだと言うのです。

 それから、太平洋戦争はやむを得ずやったと言うところと、植民地解放という側面があるので、太平洋戦争の真相を分析する必要があると言うのです。太平洋戦争と言わずに大東亜戦争と言っているので、僕はレジュメでは書き換えましたが、教団の中では、大東亜戦争を聖戦として協力したということが間違っていたと言えないのではないか、という考えの方がたくさんおられたのです。現に日本では「新しい歴史教科書をつくる会」などがあり、靖国神社の遊就館へ行ってみたら、日本の戦争は明治以来全部正しかったというものが陳列されています。

 そういう意味で、この時点で太平洋戦争の真相の分析が大事で、「教団成立が過ちとは、今になって無責任」だと言うのです。また「戦争の前提となる国家の過度の単純化を慎め」と。鈴木先生などは、教会と国家というドイツのパルメン宣言の考え方の影響を受け、国家とは戦争、「悪」の主体になり得るのだという論理です。「教会と国家」というテーマでまとめますから、それはちょっと単純な、神学的なまとめ過ぎだと言っています。

 また、「教会の責任問題は、福音の保持のみ」と言うのです。「戦争中もちゃんと福音は保持したではないか、誤りなく福音宣教は保持した」と。もちろん福音は保持しているのですが、日本基督教団成立の時に、日本基督教団は皇運を扶翼して天皇に仕えまつるということを謳っているわけです。それが片方にあるにも拘らず、福音は保持したと言うのです。

 それと、「第3回総会宣言文への議長の態度が悪い」と言うのです。鈴木議長はかなり人を食ったようなことを言う方ですから、それがけしからんということです。それから、「手続きが悪い」と。「戦責告白」は、一度各教区・教会に返して議論し、それから出すもので、鈴木正久なんて格好良くパッと出すなんてけしからん、と言うのです。ここで教団は二つに割れたと言えます。


② 社会委員長会議 (1967.7.13)
 一方で、社会委員長会議は『日本基督教団社会活動基本方針』を可決します。「教会がこの世の支配に服した過ちを悔い改め、置かれた状況で信仰の告白がなされなかったことを自覚しないと、今日における使命において再び過ちを犯す。」これが体質改善論と言いますか、宣教ということを隣人の悩みと共に理解するということです。


③ 「5人委員会」の段置
 教団は二つに割れたのですが、割れてはいけないと、調停委員が出ます。常識員会の許に作られた、「5人委員会」 です。調停の名人・北森嘉蔵神学博士。そして秋山憲兄、菊池吉弥、木村友巳、佐伯検の諸常議員。大体、北森先生の論理でまとめたのですが、賛否両論の事後処置です。「反対者を含め牧会的配慮の必要」と。始めからいかに全体をまとめるかということが目的ですから。


④ 「5人委員会答申」(1967.7.13)
 5人委員会の答申は「信仰告白と『戦責告白文』との関係は、告白と言うけれども、同等のものではない。聖書と宗教改革との伝統に従い、信仰と行為の問題と理解して整理する」というものです。つまり、「信仰告白」をしているという、その告白で扱っている信仰の事柄は間違いない。「戦責告白」というのは、戦争中の行為、生き方の問題で誤っていたと。そして福音主義教会は、信仰以外の問題で分裂することは許されない、と言うのです。まず反対を唱える右側の人にくさびを打つわけです。

 そして教団成立は「神の摂理、願いとしての罪の赦しである」とし、「歴史的現実は、宗教団体法を契機としている」。そして「もし過ちがあったとすれば、信仰告白の制定が未解決であったこと」で、やはりその時点で信仰告白をきちんと制定すべきであったということです。これらが未解決であったことが過ちだったのだ、と言うわけです。

 「戦争協力は、キリストの預言者、王、祭司の三つの職位から見る必要がある。国家への協力は祭司職からの「とりなしの連帯化」である」と言う。これはひどいと思いますね。戦争協力は、国家へのとりなしの役を果たしたという神学的意義づけをするわけです。そして「それは直ちに預言者的見張りの役目へと展開される」 なんて、この見張りの役目に怠りがあったと「戦責告白」は言っているのだ、と。

 それから「憂慮すべき方向に過ちを繰り返さない」というのは、日本がずっと右傾化していくということで、これは教会の政治的な一元化ではないかと言うのは、湯川先生以下の「憂える会」の聞いです。それに対しては、「地の塩」として、基本的な意味で平和と民主主義ということでは教会は一致しなければならないが、具体的な政治問題については、一々審議会方式で越えていくというものです。それから、鈴木議長の言説に対しては、警告をして慎重を要望してまとめたわけです。そして「戦責告白」を骨抜きにするわけです。骨抜きにしたけれども、いまだに教団の中ではかなりの人が、この「戦責告白」を認めていないのです。でも一応、5人委員会の方式に従って、教団を分裂させないためで何となく来ています。しかし、反動が来ます。「戦責告白」路線と信仰告白路線との対立が生まれて、教団政治では「福音主義連合」が結成され、5人委員会の答申の基本線で、教団を信仰告白路線でまとめていくことになります。強力な政治主義が功を奏して、今や教団は、その政治主義で教団総会も常議員会も完全に抑えられています。何と言っても数の問題です。

 70年代は、万博キリスト紛官建設に反対する運動とか、教団への問題提起、教師検定問題、会議制など、教団総会は休会になるほど問題提起がありましたが、結局これらは封じ込められます。そして「信条主義(信条ファンダメンタリズム)、教会主義が教団政治的には主流となり、それが非状況的伝道論優先の運動を教団内に生んだ」とあります。お分かりになりますか? 「それゆけ、伝道」と山北議長が言っていますが、伝道とは何を伝道するのか。伝道とは、具体的に現在の日本社会の底にある悩みを共にして生きていこうということなのですが、そうではないわけです。一つのキリスト教布教の教義の中に人を巻き込んでくると言うのです。人数を増やすということです。

 そして、時を経て現時点での教団執行部は、「歴史的には教会政治的靭帯でしかなかった「教団信仰告白」を唯一の教団の法的契約の根拠にします。僕は1954年の「教団信仰告白」は一つの歴史文書だ、と思っています。「信仰告白」というのは、いつも状況によって、なされなければならないものだと思いますが、小林副議長などは、この1954年の信仰告白を教団の唯一の契約、基盤にするとおっしゃいます。この間も、神奈川教区の総会でそのことを一生懸命言っていました。

 「歴史に生きる教会」ということは、1960年代から教団が抱えてきた一つの線だとすれば、そして、それが「戦争責任告白」を生み出したものだとすれば、「歴史に生きる教会」は教団レベルでは後退します。そして「隣人と共に生きる」という宣教諭を、より根底的なベースにした教会活動は、草の根の教会には定着したという面もあります。全国各教区いろいろな所に友人たちがいたり、また、招かれて行ったりして交わりを持ちますと、草の根では案外「歴史に生きる教会」 が生きているのです。

6.「共に生きる」という宣教論的教会への模索
 根底的なベースにしている宣教諭というのは、どういう言葉で言ってもいいのですが、「共に生きる」とか「歴史に生きる」とか、いろいろな言い方があります。「共に生きる宣教諭」というのは、言葉とからだとが離れていないということです。レジュメには「教会の共同性を『信仰告白』という『言葉』の観念的一致にのみ求めた場合の弊害。キリスト教教義、イエス・キリストの啓示・贖罪の出来事への決断に『言葉』の出来事を集中させるために、決断を迫られ促される人間の生存への抽象化を起こす。言葉(信仰告白的事態)による決断は、生存の状況への肉化(歴史的・宣緋句事態)と相関的であることを失うならば、宗教(福音)の観念化は免れない」と難しいことが一気に書いてありますけれども、そんなに難しいことを言っているのではありません。

 「言葉」と「体」は相関的である、ということです。親の言うことを聞かないと言いますが、子どもは親の背中を見て育つわけで、親父が亡くなった棺の外で男の子が泣くと言います。親父はこう生きてきたということが分かるからです。親父がいくらガミガミ言葉で説教しても少しも聞かなかったとしても、生き方そのものが最後に言葉になるのです。そういう意味での「言葉」は、キリストの福音とか、十字架の出来事とか、イエスの振る舞いとか業と言うのですが、それを全部キリスト教教義に収斂されて、言葉における決断ということをすれば、生存の状況への肉化というものは失われてしまうということです。
だから、歴史批判を組み入れた開かれた聖書理解であるべきで、ドグマとして聖書を理解すると、本当に聖書を読んだことになりません。元日に鎌倉の駅前に立って、八幡宮に参拝する人たちに「イエス・キリストを信ずる者は救われます」などと一生懸命やっていますが、恥ずかしい気がします。ああいう言葉における宣教ということに一元化してしまったら、聖書という歴史文書などいらないと思われます。われわれが聖書を読み、聖書を研究するのは、歴史批判を組み入れた聖書理解を絶えずしていくということです。

 被差別者の問題、被抑圧者との連帯、反権力、反天皇制、靖国、性差別、沖縄など社会の問題は、教会が本来的に取り組むべきことではないと言われますが、開かれた宣教諭というのは、そうではありません。これらを一緒に担っていくということでの言葉化が信仰告白であるので、この順序は逆ではないわけです。信仰告白があって肉化があるのではなくて、肉になったものが、言葉として告白されるわけです。

 だから、個別課題というのは非常に大事なのです。「靖国・天皇制情報センター」 とか「性差別問題特別委員会」などは、個別課題を扱うわけですから、教団の中では非常に大事な委員会なのです。それなのに、(ただつぶすわけにはいきませんから)お金がないと言って全部つぶしてしまいました。第33回から第34回総会のことです。沖田さんなどが一生懸命回復をやっているのですが、なかなか大変で、いまだに回復できないでいます。でも、やがて回復する日が来るだろうと思います。

 「戦争責任告白」は、1967年に1回したらそれでいいという問題ではありません。あれを一生懸命唱えていれば、それで免罪されるというものではなく、それまでの罪貨を言葉化したもので、あの時点での言葉化です。あの「戦責告白」の盲点を二つ言っておきます。僕は自分でこれに関わりながら、これが出てきた時、鈴木先生に話したかったのですが、その前にお亡くなりになってしまいました。
一つは、状況を神学的な言葉で括り過ぎているということです。これはドイツのパルメン宣言の伝統を引いているのですが、「まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは『見張り』の使命をないがしろにいたしました」というのはイザヤ書の言葉を背景にしています。『見張り』の使命をないがしろにしたなどというものではないのです。本当に協力したのです。救世軍が憲兵に引っ張られていく時、みんな怖気づいたのです。みんな沈黙したのです。ある牧師の家にも特高が入ってきました。『昆虫の社会』なんか『社会』がつくから危ない。この本は何だ」とか言って…。『昆虫の社会』は蜂のことが書いてあるのですが、そんな程度の中味の強権です。それでみんな沈黙しました。「悪い時代に良い人は沈黙する」と言うけれども、反戦の声を挙げられなかったのです。それを「見張りの使命をないがしろにした」などというのは神学的過ぎます。それから、「『世の光』『地の塩』 である教会は」とありますが、教会はもっと世俗的でした。どうやって生き残るかというように。

 だから、この「戦責告白」は神学的概念が現実を被うことが多すぎるというのが第1点。それからもう一つは、沖縄のことが全く書かれていない。山里さんがあそこであれだけ言ったにも拘らず、鈴木先生や僕らを含め、これは私どもの責任です。それがあとから沖縄との合同になり、その合同が不十分だったために、合同のとらえ直しになっているのです。その合同のとらえ直しすら、今度の教団総会は決定的に廃案にしてしまいました。

 そこで、われわれは教団総会議員やその他の有志で長ったらしい名前の会を起こしました。「沖縄から米軍基地の撤去を求め、教団『合同のとらえ直し』をすすめる連絡会」というものです。教団総会の晩に起こしたのですが、(私は身内の葬式でいなかったのですが)、時間がなかったものですから、代表に岩井健作を、事務局長に府上征三ということだけを決めました。それで最近、その決められたことを一生懸命果たして、少し機能するようになりました。是非個人でこれに加わってほしいことと、教会が賛同者として支援してほしいということです。個人は会費2千円、教会は賛同金4千円でお願いしています。
 私はこの活動をいろいろな方々とやっています。教団でやらないのですから、「NGO」と言いますか、有志でやる以外にないのです。「合同のとらえ直し」のことをきちんとやっていきたいと思います。それが沖縄に対する責任で、総会で否決されたら「ああそうですか。それまで」というわけにはいきません。一人ひとりが努力していかなければいけないと思っています。今、一般の世界でもNGOがいろいろなことを動かしています。NGOは非政府機関で、言ってみれば草の根の民衆ですけれども、われわれは草の根の民衆に徹していくという意味でそういう会を起こしたのです。

7. 日本のキリスト者の戦争に対する「距離の遺産」
 日本のキリスト者の中には、戦争に対して距離を持っていた方がたくさんいます。主流では戦争協力をしましたが、個々人の中には、戦争に対して随分距離を持っていた人がいるのです。これは非常に大事なことだと思います。この遺産は継いでいかなければいけないと恩います。そんな意味でレジュメには思いつく人々の名をあげました。

 阿波根昌鴻さんのことは、皆さんよくご存じと思います。

 高倉徹牧師は岩国教会で私の前任者です。高倉徳太郎という神学者の御曹司で、昼行灯みたいな方(天国へ行ってしまわれたので)ですが、この先生の後任で、私は岩国教会で牧会したのです。すごいと思うのは、二等兵の時に日本陸軍を脱走するのです。それでリンチに遭ったのですが、彼の部隊は南方へ行って全滅し、彼は脱走したゆえに生き残るのです。それで戦後伝道者になっていくのです。
 『鈴木正久著作集』を読んでみると、鈴木正久牧師は、戦争中はっきりした考え方を持っています。紙の配給がなくなって週報が作れなくなったり、教会はいろいろなものを削られてすっきりしたと言うのです。本当に大切なものだけを大切にしていかなくてはいけないと言っています。

 歴史的人物は敬称を略します。時間がありませんので、内村鑑三、矢内原忠雄、平和主義者の河井道を飛ばします。矢嶋楫子は矯風会を創立した有名な人です。
管野スガはあまり知られていませんが、岩波新書に『管野スガ』というのがあります。この方は天満教会の会員です。幸徳秋水に連座して死刑にされますが、明治の「キリスト教世界」なんかにいい文章を書いています。この方は本当に日本の反戦闘士です。

 柏木義円も有名なので飛ばしますが、安中教会で反戦を貫いて、「上毛教界月報」に論陣を張った方です。
 竹久夢二の絵は知られていますが、彼はドイツに行っている時、国境を越えることができたものですから、いろんな文書の伝達などでドイツ教会闘争に随分協力します。これは調べてみると面白いと思います。西南学院の関谷定夫先生がこのことについての本を書いています。

 小磯良平は画家ですが、私がいた神戸教会の会員で、晩年親しくさせていただきました。小磯良平の絵についてはいろいろ調べさせていただいているのですが、描写力抜群です。特に女性像などは戦時中、従軍画家として動員されていくのですが、宮本三郎、藤田嗣治など戦闘場面を描きましたが、小磯良平は戦闘場面を描いていないのです。「娘子関を征く」 なども休戦場面です。そして昭和18年、「斉唱」という女学生が歌っている有名な絵を描いているのですが、かなり距離を持っていて、私が戦争中のことを聞こうと思っても絶対語りませんでした。やはり戦争に協力したと言うか、従軍したことを随分悔いていたのです。小磯良平の話は、またどこかでさせてください。「小磯良平とキリスト教」ということで、かなり資料を持っていますし、私がお葬式をさせていただいたという関係もありますので。
 ユン東柱は教団から本が出ています。韓国の詩人です。小野村林蔵牧師のことも随分書かれています。

 今日は時聞がありませんので、住谷悦治先生のことだけ触れておきます。

住谷悦治は同志社の総長をやった人です。 滝川事件に連座して同志社を追われ、松山高商に行き、終戦後帰ってきて経済学部長から総長になった人で、この人の伝記が出ています。松山高商時代、教え子の土岐まもるさんに赤紙が来て出征する時、住谷先生に挨拶に行きます。すると住谷夫妻が出てきてコヘレトの言葉を引用するのです。「土岐君、死んではいかん。愚かすぎるな、どうして時も来ないのに死んでよかろうか」と。そして「神ともにいまして」を歌って送り出してくれるのです。それで、土岐まもるは「特攻隊を志願する者は前に出ろ」と命令された時、みんな勇んで前に出るのですが、住谷先生の言葉を思い起こして一歩も動かなかったのです。「土岐、どうしたか! 」と、本当に半殺しの目に遭います。彼は何と言われても、生きて帰るのです。戦後すごい働きをします。そして住谷先生のお葬式の時に

先生ありがとうございました。あの時、先生が生きて帰れと言って下さらなかったら、自分は今ここにいないのです

と言うのです。そんなに勇ましく反戦をした人ではありませんが、住谷悦治は、厳しい中で「生きて帰れ」というコヘレトの言葉を引用するだけの生きざまを持っていたわけです。私も同志社で、住谷先生に経済学を学びました。そういう意味ではそれぞれ戦争への距離があったと思います。

 最後に渡部良三のことを話して終わります。渡部良三は無教会の方です。戦時中、軍隊の中で散文では書けないので和歌を詠み、それを肌着に全部縫いつけて、最後に戦地から帰ってくるのです。その肌着に縫いつけてボロボロになった歌をずっと置いておいたのですが、1994年になってどうしても自分のことを訴えておきたいと言って、初めて出版するのです。彼の父も無教会の方です。

反戦をいのちの限り闘わむ こころを述ぶる父の面しずか 

 これはいよいよ赤紙が来て別れる時です。そして向こうへ行ってから、中国人を並べて銃剣で刺したり、剣で切る命令が出ました。彼はそれを拒むのです。兵隊たちは皆度胸がつくということで刺すのです。半殺しの目にあいますが、彼は生きて帰って来ます。戦後静かに生きるのですが、やがてその時詠んだ歌を発表します。

鳴りとよむ大いなる者の声きこゆ『虐殺こばめ命をかけよ』
生きのびよ 獣にならず生きて帰れ この醜きこと言い伝うべく

『歌集 小さな抵抗』 渡部良三
(シャローム図書 1994、岩波現代文庫 2011)

8. 結び
 一人ひとりの信仰が大事なのです。誰がどう言ったかではなくて、それぞれの生き様です。最後に国家と対峙するのは一人の魂です。だからそういう抵抗が大事です。何も一列に並んでしなくてもいいんです。小磯さんのように戦時協力しても、自分の絵を、「母子像」をあの時点に描くということです。みんなそれは違うと思います。声高に「ノーモアウォー」と言わなくても、それぞれ自分に戦争をする権力との距離があるだろうと思います。その距離をしっかりと養っていくことが大事だと思うんです。これが、戦争責任をしっかりと省みていくことだと思うんです。そういうものを養っていく場所が教会なのです。具体的に信仰者の主体であり、そういう主体を養うところが教会の礼拝であり、祈りであり、交わりなのです。

 これから国家はどんどん右傾化していくと思います。小泉は勝つでしょう。そうすれば更に右傾化が進み、憲法・教育基本法の改悪をやると思います。教団も右傾化して、恐らく声明一つ出さないと思います。でも、一人ひとりがしっかりしていくことが大事だし、その一人ひとりを抱えている各個教会がしっかりしていくということが、本当に大事なのです。これからは、教団がどういう声明を出したとか、教区がどういう声明を出したということはあまり問題ではありません。一人ひとりが自分の言葉を持つということが大事だと思います。



国に剣を取らせてはならない(2015 状況)