ニコデモとイエスとの出会い(2005 川和・説教要旨)

2005.9.4、川和教会礼拝説教 (要旨)

ニコデモとイエスとの出会い

(単立明治学院教会 牧師、健作さん 72歳)

 ニコデモという人のお話をします。彼に私たち自身あるいは現代人の在り方を重ね合わせて、聖書の語りかけの鋭さを学んでゆきたいと思います。

 彼は新約聖書のヨハネ福音書に出て来る人物です。社会的にはユダヤ人の最高法院の議員で、宗教的にはユダヤ教のパリサイ派という一番正統的な宗教的地位に身を置き、紀元1世紀のロ−マ帝国という外国支配下のユダヤでも民族的情熱のアイデンティティーを持った知識人でした。ユダヤ人なのに「ニカー(勝つ)・デモス(民衆)」というギリシャ名をもつ自由人でもありました。

 さて、ヨハネ福音書には3回彼が登場します。
 第1回目。3章1節以下。ニコデモが夜イエスに会いに来て、イエスに尊敬を込め問答をするという場面です。
 第2回目。7章45節以下。パリサイ派の下役がイエスの逮捕を躊躇して幹部になじられた時、幹部の一人として同僚を「法の理」でたしなめる場面です。
 第3回目。イエスが政治犯として処刑された後、地位から考えれば危険を侵して、墓への葬りに香料を携えて参加します。

 聖書は彼が権力の体制側にありながら、限りなくイエスに近付こうとした信仰厚き善意の人物として描いています。しかし、最初の問答で、イエスは彼の宗教的理解に大変厳しい会話で切り返しています。

 ニコデモはイエスが「神のもとから来られた教師」「神が共におられる(方)」という認識を示します。当時パリサイ派の理解は「神は律法と共にいる」という理解で、イエスは律法を破る異端者(逮捕すべき人間)、神に敵対する者と考えていましたから、ニコデモは大胆にイエスに接近したのです。という事は、ニコデモなりに、パリサイ派の生き方に内面的疑問を持っていたのです。

 イエスは「はっきり言っておく、人は新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」と拒絶に近い答えをします。ヨハネは「新たに」という事について、「霊(風と同語)」によってと言い換え、その意味を「肉(地上のもの)」との対比で議論を進めます。しかし、ニコデモとイエスとのすれ違いが物語では強調されています。

「新たに」という言葉は「上から」「再び」と言う意味にも使われ、ニコデモは「再び母の胎から生まれる」と解して誤解を広げてしまいます。ここは「上から」と訳すのがよいと思われます(岩波訳)。「上から」が「」と言い換えられて「『神』との関係」が含意されて、「肉」と対比されると意味がはっきりしてきます。

「肉」が「自己完結的」「自己充足的」「自分本位」「自分中心」という自足する人との非関係的在り方を示しているのに対して、「霊」は、関係を創造する営みを意味します(風が自ずと相手に感じられるように)。その意味では「霊」は開かれた関係、「肉」は閉ざされた関係です。

 ヨハネの理解によれば「閉ざされた関係(ヨハネは『世』『ユダヤ人[パリサイ派]』と言う言葉にそれを代表させます)」と「上から」「霊」という「開かれた関係(イエスが地上に来られ、十字架につけられ殺されることで初めて現れる出来事)」が二つ並んであるのではなく、閉ざされた関係が壊れていくという自覚の中で、「開かれた関係」が創造されていくという理解を示しています。ここがヨハネ福音書の「」です。

 その事をニコデモの物語の結論部分で、16節に教義的に纏めます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。ここには、神が自らの「自己完結」を自らの側で破られたこと、ご自身の一部である「独り子」を「与える」事で断絶している「世」を「愛」された事が述べられています。「開かれた関係」を創造されたという内容に置き換えてもよいと存じます。

 さて、自己完結的在り方への批判が、表面上分かりのよいニコデモへのイエスの一見冷たい関わりであったと思われます。理解を共有するという点では冷たく思えますが、ニコデモが自らの自己完結性に気が付き、イエスの存在の意味を悟るという可能性を暗示する事においてはヨハネの物語は、イエスの遺体を葬るニコデモに象徴させます。死後その人の存在の意味を知ることは私たちの日常にもある事です。


 さて、物分かりのよい自己完結的生き方は、「近代」という時代が象徴しています。例えば、自然を近代科学は分かったような気になって操作してきました。自然にたいして人間を優位とする閉ざされた関係で支配してきました。しかし、文明の自己自足性が、自然との関係で行き詰まってしまいました。

 例えば地球温暖化現象などは一つの例です。京都議定書を作って自制する事で、開かれた関係の世界への模索を始めました。しかし、自国の自足の為にそれに加わらないのがアメリカです。異常気象にもとずくといわれる「ハリケ−ン・カトリーナ」の被害がアメリカの弱者を襲ったというニュ−スを聞いて、これは温暖化と関係がないとは言い切れないと思いました。

 そして私はニコデモを思い出しました。彼は彼なりに「神」に対しても物分かりはよかったのです。しかし、その宗教的信念は自己完結的でありました。それにたいして、イエスは「十字架の死」を通して(14節)「世を愛する」という開かれた関係の「しるし」となられたのでした。

 アメリカ(権力と共に社会)がこのたび露呈したような「貧しい人達を切り捨てて行く」限りは、アメリカという「世・世界」は閉ざされたものになってゆく気がしています。


 聖書が聴かれるとは、個人においても、団体や学校、社会においても、国においても、自己完結性を破る「上から」の出来事に、目を向け、耳を開き、生き方の転換をする事ではないかと思います。

 祈ります。
 
 自らの自己完結、自己充足な生き方を「上から」破る力をお与えください。ア−メン。


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