ルカ 2:15の黙想《ルカ 2:8-20》(1992 本日説教のために・クリスマス)

1992年12月20日、待降節第4主日・クリスマス礼拝、神戸教会
(受洗4名、信仰告白1名、転入3名、聖餐式)

(神戸教会牧師15年目、牧会34年、健作さん59歳)


 私たちは様々な思惑の中で日常生活を送っている。

 けれども「無くてはならぬものは多くない。いや一つだけである」(ルカ10:42)と聖書が告げているように、根源的なものとの出会いを絶えず促されている。

 心が鈍いので、それが人生の「大事件」をきっかけとして迫ってくることもあるし、なんとはなしにそんな世界に足を踏み入れていることもある。

 ルカの物語の羊飼たちは、この根源的なものとの出会いを「非常に恐れた」存在として述べられている。

 そして神の語りかけは「恐れるな」という切り込みで第一声が投じられている。

 このことはクリスマスの説教で幾度も聞いてきたが、もう一度、心して聞きたい。

 この第一声の後、羊飼は「さあ」と立ち上がった。


 「ベツレヘムへ行って」(ルカ 2:15)

 「救い主」に客間の余地を残させない世の現実がある。

 ベツレヘムとはそういう所だ。

 その暗がりの中に「飼葉おけ」の幼な子がいる。

 それが《救いの徴(しるし)》だという。

 心を研ぎ澄まさねばならない。


 「主がお知らせ下さったこと」(ルカ 2:15)

 主が知らせなければ、福音にあずかることは出来ない。

 とすれば、我々は「主よ、どうかその”喜び”(ルカ 2:10)を私にお知らせ下さい」と祈るしかない。

 我々の側の現実を破って、神の現実へと招き入れられる手立てが、祈りであることを私たちは教えられている。

 「目をさまして、感謝して祈り、ひたすら祈り続けなさい」(コロサイ 4:2)。

 そこには信仰の最初の、そして根源的手がかりがある。


 「出来事を見てこよう」(ルカ 2:15)

 福音が出来事であるとは心強い。

 福音書を読むこと、イエスの生涯、言葉、振る舞いを知ること、それは歴史の出来事を知ることである。

 そこから起ることを証しする人に出会う体験を大事にしたい。


 「互に語り合った」(ルカ 2:15)

 福音の出来事を、そのことを中心的に語り合う羊飼の交わりは、信仰による共同体を暗示している。

 世の集団として、教会は制度、儀式、教義を持ち、さらに世俗そのものを引き入れて粉飾されてきた歴史をもつ。

 しかし、そこでもイエスが十字架を負われ、死を告げ知らせている。

 それゆえに、我々は互いに語り合うことを許されているのではないか。

 この喜びはクリスマスの喜びでもある。

(1992年12月20日 神戸教会週報 岩井健作)



1992年 説教

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