聖書を読む生活

神戸教會々報 No.137 所収、1992.12.20

(神戸教会牧師 健作さん59歳)

ベツレヘムよ、あなたは小さな者だが  ミカ 5:2


 聖書の記事の中にはしばしば矛盾がある。その矛盾がどうして起っているのかを考えることで、聖書そのものの持つ「語りかけ」に出会うのは聖書の読み方の一つである。

 例えば、クリスマスに読まれるテキストをとりあげてみたい。マタイ福音書2章6節に引用されている言葉を元々のミカ書5章2節と比べて見ると、肯定文が否定文になってしまっている。


「しかし、ベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る」(ミカ 5:2)


「ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう」(マタイ 2:6)


 聖書の「夢」を壊すと一部から悪口を言われている聖書学の研究成果を拝借してみよう。イエス誕生地をベツレヘムとする伝承は、イエスがダビデ王の子孫であるというメシヤ(救い主)の正統性を裏付ける神学的論証から生じた原始キリスト教の要請によるものだという結論である。これは動かし難いであろうと言っている。

 ミカ書もマタイ福音書も「メシヤ」に対する信仰告白であるが、その告白の仕方が異なるところに注目したい。

 ミカは、紀元前701年、アッシリヤの包囲の中でイスラエルの王たちが屈辱的取扱いを受けた状況で、政治の中心地エルサレムの力と栄光とは対照的に、首都は滅びるが、ダビデの故郷(サムエル上 16:1-3)羊飼の地方から出る者に希望を抱く、と預言をしている。ベツレヘムは小さい者なのである。小さいことが逆説的に捉えられている。

 ところがマタイは、メシヤの正統性を論じるために、旧約を、その逆説としての系譜ではなく、自己の論証の権威典拠にした。

 私は、ここで二つの異なる「信仰告白」の歴史状況の違いを無視して、マタイのベツレヘム伝承を用いたことが自己正統化の内向きの論理だとだけ言うつもりはない。それぞれに証しする自分の状況というものがある。

 マタイ福音書には旧約の預言の成就を語ることで教化すべき彼の教会の成員や宣教の対象者が存在した。また、マタイはエルサレムをイエスに敵対する力の場(16:21、23:37等)ともみている。しかし、ミカが持っていたベツレヘムに対する逆説性が失われてしまっていることも事実である。マタイのこの傾向については、他の個所にも見られる(ルカ15:4の「野原」を、マタイ18:12が「山」に変更している例など)。一つの記述をする際に、ミカもベツレヘムを歴史的故事(サムエル上16)から引用し、マタイもミカから引用する。どこが異なるのであろうか。「ベツレヘム」を自らの内にみるのか外にみるのかで変わって来るのではないだろうか。ミカの活動した紀元前8世紀は預言者アモス、ホセア、イザヤが体験したのと同じく、現実政治の退廃した時代であった。彼にとってベツレヘムは頼りにすべきものの外にあった。にもかかわらず、サウロの王権に対して逆説的ダビデの存在を示す地であった。ミカの心にはそのことが響いている。


 最近、小田実『異者としての文学』(河合文化教育研究所 1992)を読んだ。

「私にとって文学、小説とはいったいなんだろうか?と考えると、できあがった価値観、できあがった世界(自分の内部を含めて生きている空間の「世界」)に対して、異質なもの、異なったものをぶちこむことであるーそういうふうに私は考えています」(p.18)

という言葉に深い暗示を与えられている。聖書を読むことが、小田氏が言うような「異者性」を感じさせないものであれば、聖書に出会ったことにはならない。元来聖書が宿しているものは、聖書より後に構成された正統的神学より広範なものであり、幾世代にもわたって、歴史を生き貫いた信仰共同体の豊かな所産なのである。そのような意味で聖書への学びに熱心な教会であり、また各人であることを益々心がけたい。

 そこには伝統的神学を歴史の中の一つの読み方としつつ、それを越えて鋭く温かい「神の語りかけ」がある。