ガリラヤの春《マルコ16:1-8》(1994 週報・説教補助・復活日・『沈黙の春』)

1994.4.3、神戸教会
復活日(イースター)礼拝

(神戸教会牧師17年目、牧会36年、健作さん60歳)

この日の説教、マルコによる福音書 16:1-8「ガリラヤの春」岩井健作
午後、納骨者記念式 説教「希望と祈り」 フィリピ 4:4-7、岩井健作


 ”今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われた通り、そこでお会いできるであろう、と」。”(マルコ 16:7、口語訳)


 ”さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」”(マルコ 16:7、新共同訳)


 この春、私は何人もの方から「レイチェル・カーソン女史」について紹介を受け、その生涯と活動を教えられた。

 この人に出会ってみると、今まで知らずにいたことが不思議に思えた。


 少し前、森田千秋兄から「教会文庫に」と寄贈された「かもがわブックレット」の中に『「沈黙の春」を読む』(レイチェル•カーソン日本協会編集、かもがわ出版 1992.4)という一冊があった。

 レイチェル・カーソン(1907-1964)が、アメリカのベストセラー作家であり、海洋生物学者であること、1957年、DDT(有機塩素系殺虫剤)の散布による様々な被害を訴える友人の一通の手紙に触発されて『沈黙の春』を執筆、この書が「アメリカを変えた本」として、自然の生態系破壊と環境汚染への警鐘を鳴らし、人類の未来を鋭く問うたことなどを知った。


 先月(3月)の終わり、菅澤邦明園長の提案で、西宮公同幼稚園(西宮公同教会)といずみ幼稚園(神戸教会)とが「合同研修会」の機会を得た。

 その時の講師の一人、石原忠一氏(乳幼児発達研究所)は諏訪山近辺を5時間かけて歩き、「自然教室」を展開された。

 ”子どもと一緒に自然を探検するということは、まわりにあるすべてのものに対する、あなた自身の感受性に磨きをかけることです。”(『センス・オブ・ワンダー』レイチェル・カーソン)

 という、レイチェル・カーソンの言葉が石原氏の思想の根底にあった。

 早速、新潮文庫版の『沈黙の春』(新潮文庫 1974)も求めた。

 読み切れるものではないが、カーソンを通じて、鳥さえ鳴くことのない春の破壊をよみがえらせるとは、どういうことかの暗示を与えられた。

 カーソンの略年譜をみると、『沈黙の春』執筆中、胸部のガンは好転せず、苦闘の中での執筆の本が、ようやくアメリカ全土に反響の嵐を巻き起こした翌年、56歳で彼女は世を去った。

 彼女の提起した「春」は、自然現象ではなく、生命あるものを絶望的な仕方で呑み込もうとする「死の力」に対抗する「春」であった。

 それは、自然そのものが暗示している「驚くべきこと」そのものを宿す「春」である。


 ”野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。”(マタイ 6:28b-29、新共同訳)

 ”野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。”(マタイ 6:28b-29、口語訳)


 このマタイの言葉が暗示する「春」である。

 神学的文脈でいえば、イエスを殺した人為、その死の力に打ち勝つ希望と生命の「春」なのであろう。

 ガリラヤには、そんな春が訪れたに違いない。


 ”しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。”(マルコ 14:28、口語訳)


 ”しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」”(マルコ 14:28、新共同訳)


 との言葉を「春」を読む心としたい。


(1994年4月3日 神戸教会週報 岩井健作)


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