受難週を前にして(1994 週報・受難節)

1994.3.20、神戸教会
復活前第2主日・受難節第5主日

(神戸教会牧師17年目、牧会36年、健作さん60歳)

この日の説教、マルコによる福音書 14:12-26「備え」岩井健作


 受難節(レント)の期間も終わりに近づいて、やがて受難週・受苦日を迎えます。

 この季節、苦しみの意義について、改めて考えさせられ、私たちが信仰生活途上、繰り返し学んできた聖書の章句が想い起こされます。


 ”あなたがたは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。”(フィリピの信徒への手紙 1:29、新共同訳)


 ”彼は責められ神にうたれ苦しめらるなりと。彼は我らの咎(とが)のために傷つけられ、我らの不義のために砕かれ、みずから懲らしめを受けて、我らに安きを与う、そのうたれし傷によりて、我らは医やされたり”(文語訳 イザヤ書 53:4-5)


 ”今のこの苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない”(口語訳 ローマ人への手紙 8:18)


 苦しみは、ともすると消極的に考えられがちですが、人生の深い宗教的体験であります。

 レギーネ・シントラー(スイスの教育学者)は『希望への教育』の中で、子どもの苦しみについて触れ、苦しみの中で途方に暮れる体験は、人間の完全な依存性を指し示すものであり、人間の神に対する関係の重要な前提である、といっています。

 子どもの離乳は、食べ物の受容と結びついた快感の喪失です。

 子どもは初めて苦しむことになります。

 しかし、母親との信頼を、自分の視界から母親が離れることで、なお保つとすれば、それは最初の社会的業績だ、と彼はいいます。

 これは放棄を含んでいるからです。

 入園・入学も、家庭からの分離を含み、集団への適応は様々な負担です。

 子どもは誰にも言えない自分の苦しみを消化し、自分のものとすることを通して、神との関係を身につけてゆくことができます。

 人間の苦しみは、時間性に基づいています。

 限られた時間、期限つきの一回性を肯定したくないのが、私たちです。

 しかし、限定こそが人間性であることを受容することが、積極的人生への転換です。

 ”一日の苦労は、その日一日だけで十分である”(マタイ 6:34、口語訳)


 ”私たちを死の中で、死を超えた主として、待っていらっしゃるのは恵みの神、人間を肯定する神であります”(カール・バルト)

 とは聞くべき言葉です。

 イエスが十字架で、神からの断絶(マルコ 15:34)を叫ばれたのは、私たちの時間性への全き関与でありましょう。

 ”そして、3時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。”(マルコ 15:34、口語訳)


 この週は、マルコ 14章12〜26節を学びたいと存じますが、マルコが1章〜13章に加えて、14章〜15章の完成度の高い独立した「受難物語」を加えた意義を学びます。

(1994年3月20日 神戸教会週報 岩井健作)


1994年 週報

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