2021年12月10日発行『「ほびっと」とわたし〜それぞれの50年』
(ほびっと50周年実行委員会編 2021)所収、
元岩国教会牧師(1965-1978)岩井健作
(日本基督教団教師、健作さん 88歳)
私は1965年から13年間、岩国教会の牧師でした。
反基地運動は、革新政党に加わって一緒に行なったり、キリスト教が独自に設立した日本キリスト教協議会(NCC)の岩国川下(かわしも)地区「岩国兵士センター」で宣教師と共に米軍兵士に対する「牧会活動」を行なったり、多様な活動をしてきました。
これらは私の著書『兵士である前に人間であれ -反基地・戦争責任・教会-』(ラキネット出版 2014)にまとめています。
同書の「反戦コーヒーハウス・ほびっと」という項目で「ほびっと」との関わりは記しています。
反基地運動の基本的な考え方は、基地が施設ではなくて「人間のいるところだ」ということです。
私は初め、基地というものは米軍の巨大な軍事施設だと思っていました。
しかし、米軍兵士(G.I. = Government Issue)を一人の人間として見るという見方に途中から変わりました。
それは米軍基地の一人の兵士が脱走して「匿(かくま)ってくれ」と我が家(岩国教会牧師館)に飛び込んできた時から始まりました。
その時は基地に戻るように説得しました。
その後、宣教師の力も借りて、兵士と日本の市民が対話をする集会など、何度か教会で行いました。
当時、哲学者の鶴見俊輔さん、作家の小田実さん、吉川勇一さんが岩国に来られて、運動を支えられたのは大きな力でした。
岩国在住の県税事務所職員の戎(えびす)雅男さんがたった一人で「岩国ベ平連」を名乗って活動したのもこの頃です。
思い出はいろいろあります。
「ほびっと」が使っていた家(お店)は山崎さんというお医者さんの旧宅でした。
岩国教会員の羽熊梅子さんの紹介で借りることが出来ました。
借りるまでにいろいろ苦労があったようです。
当時「時事日本」という右翼の新聞は「ほびっと」を媒介して赤軍派に岩国基地の銃が渡されたと報じ「キリスト教の牧師が一緒だからといって安心できない」と報じていました。
1971年6月5日に「ほびっと」のことが新聞(全国紙)に出ると、中川六平さんのご両親が心配して新潟から駆けつけて来られました。
私はご両親とお会いし、心配はいらないことをお話しし、お帰り頂きました。
岩国教会近くの山根旅館でお会いしたことなど、思い出深い一駒です。
ご両親は、帰りがけに京都で鶴見俊輔さんに会って「続けさせます」と言って鶴見さんを感激させたそうです。
私はその後24年間は神戸教会の牧師をいたしました。
六甲山山上に米軍の通信施設がありましたが、特に反対運動はありませんでした。
ここでは阪神淡路大震災に遭遇し、私の教会も大きな被害に遭い、また教会の人々や町内の救援活動に心血を注ぎました。
それも『地の基震い動く時 – 阪神淡路大震災と教会』(コイノニア社 2005)という本にまとめました。
その後、鎌倉に移住し、ここではキリスト教の厚木基地反対運動に加わって活動をしました。
2015年、80歳を過ぎたので群馬県榛名山麓のキリスト教の老人ホームに入居して現在に至っています。
友人が「岩井健作ドットコム」というホームページを作ってくれたので開けてみてください。岩国時代のことも載っています。
鷲野(わしの)さんのご活躍を祈ります。
(2021年12月10日発行 岩井健作)
(サイト記)「喫茶店ほびっと」は1972年2月から76年1月まで岩国で営業した喫茶店☕️。開店から2年4ヶ月は同志社大学学生の中川六平氏が初代マスターを務めた。健作さんのテキストの最後に名前が出てくる鷲野正和氏(ワシノ)は本書編集者・呼びかけ人。六平さんの後を継いで二代目マスターとなった冨野裕章氏(トミ)と鷲野氏、鷲野氏が店を離れた後、冨野氏が閉店までやり遂げた。
▶️ ほびっと ぼくになにができるか?(2009 望楼 ⑨)