書評『イエス 逆説の生涯』笠原芳光

 1999年 春秋社

書評『イエス 逆説の生涯』笠原芳光

 出版当初、芹沢俊介(評論家)、佐々木幹郎(詩人)、佐藤研(聖書学者)諸氏などの優れた書評が続いた。あれ以来もう4年に届こうとしているのに、キリスト教界は、私を含めて、この本に対して沈黙してきた。側聞すれば、キリスト者の間でも密かに読まれているという。沈黙は幅広い意味を包含しているだろう。

 「イエスはキリストではない」の宣言の言葉で始まるこの書の思想は「教会」では危険だ、黙殺するに越したことはないと、多くの教界人が片目で見やるがゆえの沈黙である。

 スリリングで大胆な問題提起に共感はするが、自分の「キリスト教信仰理解」とどのように繋いだらよいのか戸惑いを覚える、という人もあるだろう。筆者も、緩やかではあるが正統的キリスト教信仰の枠を標榜しながら「日本基督教団教師」を続けて来た者として、しかも「教会共同体」の現場を抱えながら、笠原氏がパウロ以後の原始キリスト教に徹底して否定的スタンスを投げ掛けることにどう対話するのか戸惑いを覚え沈黙の流れに身をゆだねてきた。

 しかし、多分著者の意には反した文脈での取り上げ方ではあり、また、これは『福音と世界』誌の読者にとっても書評の筋道をそらしたアプローチであることは承知のうえで、現在の「日本基督教団」の主流派の思想的退廃という文脈の中でこの書を受けとめたい。

 それを思うと、この真摯な「イエス」についての書物がまず多くの「信徒」に読まれることを心から願う。これを読んで戸惑いを覚えるのであれば、それはそれでよいことだと思う。正統的キリスト教からみてどうかという読み方より、自分にとっての問い掛けを大事にする人には得るところの多い読書となるだろう。著者も「これまでのイエス観に共鳴し、あるいはそれによって救済を覚えている方々には、なにも申し上げることはない」(227頁)と述べている。

 著者は、第二次大戦の直後、都市の廃墟の中で一冊の聖書に出会う。それがイエスとの最初の邂逅である。福音書を通じイエスの言動に惹かれ、「信」ともいうべき思いを抱くにいたった(225頁)。受洗。神学校。日本基督教団教師。しかし、原始キリスト教のイエス理解に違和感を覚え、思想的には牧師・赤岩栄氏の影響を受け、実践的には自ら開拓した日本基督教団神戸森伝道所を閉鎖し、以後、毎日曜日午前、聖書を古典として読む森集会を継続主宰、爾来五十数年、「イエスとはなにか」を自問自答し続けてきた。傍ら大学で宗教思想史の研究に身を置きながら、イエスをその「思想史」の方法で明らかにすることに腐心してきた。その集大成がこの書物である。それは、神学、聖書学、文学の立場を横断し、それぞれを批判的に総合する方法だという(23頁)。そこでは、著者の文学、哲学、宗教、聖書学についての広汎な見識が行き交い、自己との関わりにおけるイエスの輪郭を鮮明にしていく。この書物の参考文献には思想史的方法を網羅する古今東西86冊の書物があげられていて、縦横無尽に用いられており著者の方法の奥行きを裏付けている。

 ところで「日本基督教団」の現状とはなにか。それは教義としての「イエスはキリストである」を核心とする「信仰告白」を、宗教集団である教団を守る為の共同体原理として作用させ、本来逆説的に無限に開かれている人間の繋がりを遮断し、近々は「第33回総会」において、その繋がりの社会的、歴史的、現実的な努力の絆であった「靖国・天皇制問題」「性差別問題」「沖縄合同とらえなおし」を教会政治的に切り捨てるような現状である。少し乱暴な言い方ではあるが、私はその根源は「イエスはキリストである」というあの教義の定式に固着する思考にあると憂えている。この強固な定式をかためているドグマの文脈に向けて、「イエスはキリストではない」と問題提起をしているのがこの書物である。これを受け止めることは、大変なことではある。しかし、それは宗教観念に堕する危険と常に紙一重である「宗教者の宗教性」への問いを受け止め、「信仰」ないしは「信」の出来事性に立ちもどるために必須なことではないか、と筆者は思う。

 本書の内容は、序(方法:イエスはキリストか)から始まり、1(誕生:時代と風土)。2(生家:父母との関係)。3(発心:挫折の問題)。4(入団:洗礼者ヨハネ)。5(自立:不定形の集団)。6(言説:譬えという方法)。7(行為:奇跡とはなにか)。8(思想:離脱ということ)。9(最後:逆説の生死)。結(総括:イエスは《人間》である)。

 特にユニークなのは、イエスの生涯の描き方である。イエスが父を早く亡くし、父への思慕から後に神を「おやじ」と呼び、母との確執を抱えて家庭から「離脱」をしたことが、後々の洗礼者ヨハネの集団からの「離脱」、さらには弟子集団からの「離脱」、最後には「神」からすらも「離脱」したことにつながるという。著者独特の見解である。そして「離脱」をイエスの思想を特徴づけるキーワードと捉える。著者はイエスの存在形式を、「脱」として捉える。

 そうして、マルコ15:34の「わが神。わが神……」は神からも捨てられた果ての絶命の叫びと捉え、この瞬間こそイエスが「神」からすらも「離脱」し、生死の実相にまみえた刹那であると述べる。

 著者は親しい現代歌人・岡井隆の一首「詩歌など もはや救抜につながらぬ からき地上を ひとり行くわれは」を引用しつつ、「いわゆる救済のないところに『それでよい』という声なき声の『大肯定』をきくことが真の救済である」(221頁)と、イエスの逆説の生涯を描き出す。

 教義・儀礼・組織としての「キリスト教」には、宗教が本来保持している逆説が薄れているのではないかとの指摘と問いをこの本に鋭く感じるのは、筆者だけではあるまい。そのようなキリスト教の日常を深くえぐるように問い掛けるのがこの書物である。それからすれば「イエスはキリストではない」を、テーゼに対するアンチテーゼと受け取らない方がよい。あえて言えば、もし仮に「イエスはキリストである」と表白することに「信(ピスティス)」があるとするならば「イエスはキリストではない」と表白することにも「信」はある。「逆もまた信なり」と、イエスへの関わりの表白の書物として受け取った。善意の読み込みであろうか。

 しかし、わたしなりの問いもある。それは著者が原始キリスト教(パウロを含め)に否定的であることとも関係している。著者はイエスが人間の「共同性」に対してとった生き方をアナーキーと理解する。それは「脱」として表現されている。その「脱」に重ね合わせて生きることが、「どんな人間でもイエスとおなじでありうる」(203頁)と表現されている。もちろん共感し得るところではあるのだが、また「脱」だけでは割り切れない部分がある。それは良くも悪くも人間の共同性(一方の極は巨大な権力に収斂される共同性、他方の極は、愛そのものである共同性)の文脈が希薄であるところである。

 例えば、「神殿税」についての田川健三の理解を、権力についてイエスがネガティブであると解しているが、田川は「支配権力を敵にまわすことになる」凄惨なイエスを描いているのではないだろうか(『イエスという男』田川建三 115頁)。私は、政治や社会に関わって歴史の中での「血」に関わる存在そのものにイエスの人間への関わりをより多く覚えざるを得ない。

 佐藤研氏が語るように、イエスの、歴史の中での「血」への「負い目」が弟子たちにあっては、彼らが歴史の「共同性」を負って生きることを、イエスへの応答としたことが、原始キリスト教という「共同体」の生まれる根拠となったとすれば、イエスへの関わりは、イエスの生涯で終わるものではないのではないか。それはイエス伝承が形作られるのと平行して初めから世俗の汚辱にまみれながら、それでもイエスへの応答の脈絡を持ち堪えている人間の共同体である「教会」へと連続しているのではないか。

 これはわたしが「教会」に関わって、イエスへの「信」をおくことにもなる理由でもあるのだが。これからも著者との対話を続けて行きたいと思う。


(サイト記)参照
弱さにかかわる事柄を誇りましょう – 弱さの逆説
惜しみなく分け与え – 豊かさの逆説
土の器に宝を – 逆説による現実の突破
その他キーワード「逆説