弱さにかかわる事柄を誇りましょう – 弱さの逆説

「現代社会に生きる聖書の言葉」
湘南とつかYMCA ”やさしく学ぶ聖書の集い”

第47回「新約聖書コリントの手紙とパウロ」⑧
コリントの信徒への手紙Ⅱ 11章22節-30節

1 、今日の箇所、11章はパウロの苦難のカタログと言われている。しかし、愚痴っぽい響きがない。コリントの論敵はパウロがエルサレムの権威から外れていることをとやかくいった、それに対してパウロは経歴からいえばパリサイ派の権威を経てきたこと、ガマリエル門下であることを語ればよいのに、と世俗的には思われるが、学歴は一切語らなかった。パウロは史的イエスとは無縁であったが、イエスに繋がるとすれば、自分の苦難の経験であった。そこだけは、誰にも負けない苦難を舐めていた。彼の経験した苦難を通して、イエスの受難、十字架、死を思い、それに結び合わされて、イエスに繋がる受け皿とした。パウロ自身の苦難の注解は使徒言行録に出てくる。「ユダヤ人に40に一つ足りない鞭」は古事に基づく(40回まではよい 申命記25:3)が、ローマ市民権を持つパウロにはそのような刑が課せられないのに、地方行政官は無視して刑を課した。いわばリンチである。難船は言行録にはないが冬の航海は危険であった。「同胞からの難」はパウロが教会で足下からユダヤ人に言われた使徒性の問題。「教会の心配事」は精神的苦難。「だれか弱っているならわたしは弱らないでいられましょうか」(11:29)。パウロは弱さを自覚する。これらを「自己の力」で乗り切ったのではない。かえって、その弱さを逆説的に捕らえたのがパウロであった。

2 、「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」(コリⅡ12:5)
「神の弱さは人よりも強い」(コリⅠ 1:25)
「わたしは弱い時にこそ強い」 (コリⅡ 12:10)
「弱らないでいられるでしょうか(諸艱難の後)」 (コリⅡ 11:29)
「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神のカによって生きておられるのです」(コリⅡ 13:3)

3 、パウロが「弱さ」を語っている聖書の主な箇所。
「弱い」(名詞アステネイア)
 ・ローマ 5:6, 8:26, 14:1-2
 ・コリントⅠ1:27, 2:3, 4:10, 8:7, 8:9, 9:22, 11:30, 15:43
 ・コリントⅡ 12:9, 13:4, 13:9
 ・テサロニケⅠ 5:14
「弱さ」(形容詞アステネース)
 ・ローマ 15:1,
 ・コリントⅠ 1:25
 ・コリントⅡ 11:30, 12:5, 12:9, 12:10, 13:4
「弱る」(同士アステネオー)
 ・ローマ 4:19
 ・コリントⅡ 11:29
この他にもあるが、コリントの信徒への手紙が一番多い。

4 、弱さが連帯の絆になるのは、それがキリストの苦難と結び付いているという理由による。弱さを誇るという根拠もそこにある。
「世は自分の知恵で神を知ることは出来ませんでした。それは神の知恵に適っています。そこで、神は、宣教の愚かな手段によって信じるものを救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、わたしたちは十字架につけられたキリストを宣べつたえています。すなわち、ユダヤ人にはつまづかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうが、ギリシャ人であろうが、召されたものには、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」 (コリントⅠ 1:21-25) 。

5 、現代の競争社会、新自由主義経済原理によると強いことが良いことであり、弱いことは自己責任に帰せられてしまう。しかし、自己責任に帰せられない「弱さ」、所与(運命的と表現されることもある)の「弱さ」、社会的(人間の社会構成の上の犠牲者、国家の構造がもたらすもの)「弱さ」をどのように克服してゆくかの根本には、弱者の逆説的存在を肯定し、包む論理が必要である。社会学的にはかつて「ゲゼルシャフト(利益社会)とゲマインシャフト(共同社会)」ということが言われた。(ドイツの社会学者テンニース1855-1936) 。パウロの言葉は、共同社会という概念の宗教的下支えとなっている。