種を蒔く人 − 夢を持つ保育者

於YMCA とつか保育園・乳児保育園合同職員会

また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び (8節)

マルコによる福音書 4章1節-9節

皆さんこんばんは。さて、今晩の私のお役目は、12月15日の保育園・乳児保育園のクリスマスの礼拝に、職員の方が心備えをするということです。クリスマスとは何か。一体キリスト教とは何か。という根本的問いを、こんな機会に自分自身に抱きつつ、保育者として子どもたちに接することが大事だと思うのです。自分への問いを持つ保育者は、魅力があります。

1 、私は、2000年12月11日にやはりこの職員会で、「キリスト教の二つの面」というお話をしました。

キリスト教には二つの面があって、一つは「教え(教義・歴史など)」ということ。これは学びを重ねることで厚みが増します。もう一つは「出会い」ということ。言い換えれば「出会い」の関係の中でいつも生かされるという感覚を持つことですが、キリスト教の本質は「出会い」の宗教だという事です。

「出会い」には「人と人との出会い」「神と人との出会い」があります。わたしが一人の「情緒障碍」の子どもと「出会った」のは「人と人との出会い」 ですが、それは同時にその「出会い」を作り出して、与えてくださった「私と神」との出会いの出来事だ、ということをお話ししました。それをもってどんなに私が生かされ、変えられ、恵みを与えられたか、それはわたしのキリスト教生活や保育の生活にとって本質的なことであったとの経験を交えてお話ししました。

2 、次に昨年2011年11月11日には、「キリスト教と暦」と題して、季節、自然、一日のリズムが大切な事を語りました。暦は「教えを学ぶこと」「出会いを大切にすること」を、どのようにして具体化し、生活化してゆく問題であります。私たちの生活は、自然のリズムの中にあります。一日があり、一月があり、一年があります。このリズムの中で「教えを学び」「出会いを経験する」ことは、人類の知恵でもありました。その知恵で作られたのが「暦」であります。

「教会暦」もその知恵から生まれました。もちろん、暦は、事柄の季節による生活化であります。農業暦、仏教暦、国民の暦なと諸々の領域の暦があります。日本は民主・平和・人権の憲法が太平洋戦争敗戦後作られましたが、日本の歴史には「天皇の国」という考えが深く根付いています。YMCA はキリスト教の団体ですから、キリスト教の暦も入れ、また「憲法記念日」や「建国記念の日や昭和の日(前天皇誕生日)」も並列させ、日本の習俗「秋分の日」などもいれた暦で一年を過ごしているでしょう。キリスト教の暦、特にアドヴェント、クリスマス、そしてイースターという暦の祝祭日にはそれぞれ大きな意味があります。昨年細かくお話ししたので思い出してください。

3 、暦は「出会い」の生活化だと申しましたが、「クリスマス」と「イースター」 を中心にした暦はキリスト教の信仰にとって大事な「出会い」の生活化なのです。人間にとって「出会い」を疎外する一番大きなことは、自分本意で、自分中心で相手を受け入れないことです。これが極端になると、奴隷的支配、抹殺、殺人の関係にまでなります。本来、人間は支えあい、助け合って生きて行くべきものでした(自己相対化の視座の必要)。それを聖書は、人間は「創造者によって造られたものだ」と理解しました。「被造性の信仰」と申します。しかし、そのようには生きられないで、自分本意の存在であることを「罪(的はずれ)」 として自覚しました。しかし、そこから脱出する力が自力では出てきません。その人間の罪と共にあり、それを負い、赦し、贖い、本来の人間への立ち返り(救済)をもたらす方を待望しました。「その方」が神の側からの「恵み」として遣わされ、人間に「出会われた」のだ。実は、それがナザレのイエスであった、というのが聖書の信仰です。イエスは「人となり給ひし神」「人と“出会われた”神」「イエス・キリスト(イエスは救い主)の姿での神」という信仰がもとになってキリスト教が誕生しました。

イエスの誕生を覚えるクリスマスは、歴史の中での神が人と「出会われた日」という意味を持っています。それを暦として生活化するのがクリスマスです。チェーホフの逸話に次のようなお話があります。

”ある謙遜な男のために祝宴が催された。いい機会とばかり、てんでに自己誇示やお世辞で夢中になった。食事も終ろうという時になって気がついた
– 主人公を招くのを忘れていた”

これはクリスマスへのアイロニーです。アドヴェント(待降節)は、クリスマスの4週前からアドヴェントクランツ、アドヴェントカレンダーなどを作って、降誕を待つ暦の時です。我々の内側からは出てこない「天から」「神から」という、聖なるものへの畏敬、神への謙虚さが、この日の感覚です。幼子、飼い葉桶、羊飼い、異邦の学者たち、寒村ベツレヘムのイメージは、その謙虚さのイメージです。イエスの生涯は、十字架へと通じているのです。

4 、さて、「出会い」とはなんだろうか。これが分からないと「キリスト教」つまり「神との出会い」「福音」が分かりません。「出会い」とは、コミュニケーション(伝達)が成り立つことです。恋人や心を許せる友人のことを考えてください。
・「一緒にいること」 (人格言語)
・「言葉でやり取りすること」(説明言語)
・「ものを媒介にして心を交わすこと(プレゼントなど)」(象徴言語)
この三つの言語表現の伝達の豊かさが「出会い」です。
福音書に「飼い葉桶のなかに寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ2:12)とあります。乳飲み子イエスは神の象徴言語なのです。

飼い葉桶のなかに寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである
ルカ福音書 2章12節

5 、その「出会い」を待つのがアドヴェントです。「待つ」時間の緊張を味わったことがあるでしょう。親しい友人を待つ気持ちを昨年お話ししました。子どもたちが待つということをわくわくした気持ちを味わうような、クリスマスの経験ができたらどんなに素晴らしいでしょう。

6 、今の時代、夢がありません。子供を取り巻く環境は「教育格差」「いじめ」「 虐待」「放射能」。聖書のイエスの譬え話に「種蒔きの誓え」があります。最後の所迄にいろいろあるが、種はちゃんと実を結んで、100倍にもなったというお話です。イエスという方は、十字架に殺されるという逆説によって、神の愛と希望と命をもたらしたことの象徴を「種蒔き」で告げているのです。

手元にある、絵本を3冊紹介します。

ご存じのレオ・レオニの『フレデリック』です。

もう一冊は『やっペはぁ!希望の光』(文・絵 石山誠、SEEDS出版 2011) 。福島市の渡利地区の保育園が自力で除染をした再生の記録です。

『てるちゃんのかお』(藤井輝明文、亀澤裕也絵、金の星社 2011/7)。


海綿状血管腫という病気で顔に瘤があるてるちゃん。お母さんとてるちゃんが、てるちゃんにしかない価値を育み、差別やいじめを克服する個性の教育を実現してゆくお話しです。

神の希望は、こちらが応答した時には、夢になるのです。