主と共なる宴(2012 礼拝説教・ルカ・待降節)

2012.12.2、明治学院教会(295)降誕前 ④ 待降節 ①

(単立明治学院教会牧師、健作さん79歳)

出エジプト 16:13-16、ルカ 5:27-32

そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。(ルカによる福音書 5:29、新共同訳)

1.レビを弟子に

 ルカ福音書の「レビを弟子にする」という物語から学ぶ。

 27節、「出て行く」イエスと「座っている」レビの対比が鮮やかである。

 レビとは誰か。ローマ帝国下の属領地の支配者ヘロデの配下の徴税人である。

 権力を傘に着て民衆を過酷に搾取し、私腹をこやしてさえいた下級官吏である。同胞の憎悪の目は、収税人を軽蔑する構造と共に、彼の上に重くのしかかっていた。当時の宗教家パリサイ人たちも「レビ」を「罪人」と断じた(30節)。

 座っている姿には、被差別者の影と憂いが漂う。彼の内面の孤独はいかばかりであったか。「座っている」とは魂の身動き出来ない、暗く重い姿である。

 他方、ルカのイエスは旅の途上にある。『ルカによる福音書 ー 旅空に歩むイエス』(三好 迪、講談社 1998)はルカの解説書の書名である。

 旅はどこへ。「十字架」の受難の地エルサレムに向かう。「十字架」へと旅するイエスと虚なレビとが出会う。

2.従ってきなさい

 イエスは彼に「従ってきなさい」と声をかける。マルコは「立ち上がって」とだけあるのに、ルカは「何もかも捨てて立ち上がり」と「捨てた」ことを強調する文言を挿入する。

 ルカは「富・財産・持ち物」へのこだわりがある。マルコがこだわるのは、主役として何も持たない民衆であったのであろうか。しかし、主な関心をそこに置く必要はない。

「立ち上がり、イエスの従った」という句にこの物語の主題がある。

 レビの内面的経過は一切記されていない。何故従ったのか。躊躇はなかったのか。レビの気持ちにはいろいろ語られるべきことは沢山あったであろう。迷い、不決断、いや決断、感動。しかし、それらを一切包み込んで「招きと応答」の出来事だけが記されている。

「召命記事」とはそのようなものである。魂の閉塞にあった人間が「十字架」への道行きに同行する。驚くべき出来事である。「死んでいたのに生き返り」(ルカ 15:24、ロマ 11:15)とはルカの通奏低音である。

 我々もレビに投影されている「招きと応答」の構造を自らのものと自覚して生きてゆきたい。

3.主と共なる食事

 その後、レビは食事の席を設ける。ルカは食事に積極的意味を持たせる記事をたくさん書いている。それは、食事を神と人、人と人との交わりの回復の徴として認識しているからであろう。

 マルコが「食事」とした所を、ルカは「宴会」と書き換える。おそらく、レビによって、他の徴税人が、疎外され差別されていた人たちが、招かれたのであろう。

 己の力で招いた宴会ではない。

 己を捨て、己を虚しくして奉仕した食事であった。

「主と共なる」の意味がここにある。レビ独りが救われたのではない。神からの和解(救い)を人々との交わりに具体化した。己を捨ててイエスに出会う。この一事が宴(食事)の質を、人間的・自己顕示的なものではなく、「主と共なる宴」に変えたのである。

 テーブルには言えないけれど、そこにはイエスの席を自覚する時、例え独りの食事であったも、それは開かれた「宴」となる。

 今、世界の飽食と飢えはテーブルを同じくしてはいない。だが、多くの開かれた宴への働き、助け合いの働き、現代の「炊き出し」の文化が、主が共にいます宴の象徴として行われていることは恵みである。

 今年もクリスマスの季節、支援を求める働きは洪水のように届いている。祈りを持って受け止めたいと思う。身近な日本基督教団 神奈川教区 寿地区委員会・寿地区センターが運営協力している「炊き出し」の働きも祈りを持って覚えて行きたい。

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