キリスト教の二つの面(2009 とつか保育園 ①)

2009.12.11(金)YMCAとつか保育園・とつか乳児保育園合同職員会

(明治学院教会牧師、健作さん76歳)

聖書 ヨハネの手紙一 4章7節−12節

 皆さんこんばんは。クリスマスおめでとうございます。

 さて、今晩のわたしのお役目は、キリスト教をその設立の精神に掲げ、その精神のもとに保育園で保育に携わっている保育者の皆さんに、キリスト教というものをもう一度分かりやすくお話しするという事なのです。江口先生からそのように示されました。礼拝のお話しという短い時間ですから、大切な事だけを申し上げます。

 まず、キリスト教には二つの面があるという事です。一つは「教え」という事です。もう一つは「出会い」という事です。第一の「教え」には、幾つもの教え(つまり複数)があります。だから、「教え方」も「学び方」のたくさんあります。今日、お読みした「ヨハネの手紙一 4章7節から12節」の「愛」という言葉を中心にしてキリスト教の事を、丁寧に教えている「教え」です。一つのまとまりをなしています。こういう教えが「聖書」の中には幾つも、たくさんあります。たくさんと言ったのはいろいろ違った説明の仕方、ある場合には、逆のことをいっている「逆説」もあります。こういう教えは、こつこつと学ぶ意外にありません。「教会」というものの働きの一つはこの教えを年月を掛けて、丁寧に、一人でではなく、いろいろな人が一緒に学ぶところです。だから「教会」には卒業がありません。

 では、何で「教え」を学ぶことが大事かというと、第二の事柄を十分に活かす為なのです。

 では第二の事柄とは何かというと、それは「出会い」です。

「出会い」とは何かというと、人間というものは(つまり「わたしは」)、相手との関係のなかで、初めて人間であり、わたしである、ということです。そのことをよく描いた絵本に谷川俊太郎の『わたし』という作品があります。わたしは周りの人との関係で「わたし」なのだということがよく描かれています。関係ということは、形の上での言い方ですが、それを内容的に言い換えますと、キリスト教では、あるいは聖書では「愛」という言葉を用います。「愛」と「関係」とは一つの事柄を内側からと外側から言い表した言葉です。

 先程読んだ、ヨハネの手紙一の4章7節以下の「愛」を「関係」と読み直してみて下さい。

 さて、ここでわたしの経験を少し申し上げましょう。

 わたしは、第一の「教えを学ぶ」ことにおいては、教会に小さい時から行き続け、さらにキリスト教の教えを学ぶ神学校にもゆきました。人生のもう私は夕方ですが、まだまだ、教えの山の裾野に立ちすくみながら、一生懸命にやっています。私は、キリスト教保育学を専門に勉強した者ではないのですが、教会の幼稚園の園長を42年やっていますと、少しはその面でも学びを深めました。しかし、第二の「出会い」については、僕が求めてというより、向こうからの出会いがあった事が「出会い」の経験です。一人の障害児が出会ってくれたと言ってよいでしょう。それを糸口として始まるいろいろな出会いを今でも大切にしています。

 僕を子どもの世界に連れ込んだのは、「康明君」でした。

 この子が3歳児の時、ちょっと遅れがあるなと感じていました。お母さんはみんなについて行けないと幼稚園を退園させました。彼のことをすっかり忘れていたある夏休みの午後、幼稚園の門がギ−ッと開いて、白いパラソルと子供が入って来ました。「こんにちは」と玄関でご挨拶をした瞬間、記憶がよみがえりました。「なんだ、康明くんじゃないの」。お母さんの話ですと、あれから2年間、小児科医、精神科医、教育相談所などありとあらゆるところを回ったそうです。心理学者の大学教授・平井信義先生のお勧めで、康明君は、同年齢のお友達の中で育てるのが一番よい、ということで舞い戻って来たとのことでした。当の康明くんは、もう牧師館の応接間のピアノの上に座り込んでメトロノームをカチャカチャと黙って手で動かして遊んでいます。目が合わない、かなりの多動の情緒障碍です。その頃まだ「自閉症」などという用語は幼稚園の現場にはありませんでした。統合保育のことなどをおぼろげに知っていた気のいい「牧師・園長」は「お預かり致しましょう」と返事をしてしまいました。でも目算はありました。K教諭がいるからと。

 夏の研修から戻ってきた教師たちと相談会をしました。肝心のK教諭は予期に反して、「そんな難しい保育は私たちにはできません。園長先生がお預かりになったのだから、園長先生がおやりになったらいい」とケロリとしています。

 9月、とにかく自由遊びの時間だけ、お母さんがそーっと陰で見ていることで登園していただきました。園は大混乱です。靴箱の靴は散乱。ちょっと目を離した隙に印刷室ではインクベタベタ。トイレはペ−パ−の山。2週間ぐらい一人で悪戦苦闘をしました。見るに見兼ねたK教諭は私のクラスでお預かりしましょうとのこと。ただし条件があります。園長先生が「けんさくちゃん」として「やすあきちゃん」と一緒にクラス入ってください。「今日から二人新しいお友達がきました」。「なんだ、園長やんか」。「いいえ、ここでは、やすあきちゃんのおともだちのけんさくちゃんです」。年長「菊組」さんは、大混乱です。でも混乱のうちにも、少しづづ「統合保育」なるものは進みました。案の定他のお母さんたちからは大文句です。大切な就学前の時期、障碍児が一緒では遅れてしまう。「けんさくちゃん」は「統合保育」の意味を何とか説得しました。

 この間しばらく、教会の仕事が滞りなく出来るという訳ではありませんでした。役員会でそのことを話すと、障碍児のお世話は牧会の一つだから専念してください。ほかの所は我々が補いますからとお励ましの言葉、本当におおきな力でした。

 さて、やすあき君ですが、1月ごろから様子がおかしくなりました。お母さんが、焦って家で勉強の学習機を使っていたのです。康明くんは、康明くんなりに精一杯成長しているし、他と比べないで、暖かく包んでと、ある日の午後、しんみりとお母さんにお話をしました。「北風と太陽」のお話をしました。黙って聞いていたお母さんは、そのうち大粒の涙を止めどなく流しはじめられました。はっと気が付くと、北風は自分なんだとひしひしと胸に迫りました。遠洋航路の航海士の夫とは普段相談もままならず、障碍児を抱えた将来への不安。周囲の差別の目。私の祈りが続きました。

 でも3月、卒園式の証書授与では康明くんの「ハーイッ!」という真剣なご返事に、参列者は大変な拍手でした。やがてお母さんも「情緒障碍児の親の会」の仲間にも入ることができて、次のステップに進んで行かれました。気が付いて見ると、康明くんと出会ったことが、子どもの世界への手引きでした。42年間、いくつかの教会付属幼稚園の園長を務めさせて戴き、子供への驚きをたくさん経験いたしました。

 皆さんは、「子供との出会い」の経験をたくさん持っておられると思います。その経験を大事にして下さい。その経験の中にすでにイエス様はおられるのです。そして、「キリスト教の教え」についても、学ぶ機会を大事にして下さい。クリスマスはイエス様について学ぶよりも「出会い」の時なのです。

すずかけの葉っぱ(2009 明学教会報)

キリスト教と暦(2011 とつか保育園-2)

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