2009.12.13、明治学院教会(175)待降節 ③
(単立明治学院教会牧師 5年目、健作さん76歳)
イザヤ 35:3-10、ヘブライ 12:12-17
1.待降節に読まれる教会暦の聖書テキストに、古来「ヘブライ人への手紙 12:12-17」が加えられている。
ヘブライ人への手紙は「手紙」とあるが、紀元80年から90年代に描かれた宛名のない「勧告の言葉」(ヘブライ 13:22)、すなわち説教集である。
これは、信仰に倦み疲れ、迫害や誘惑にあい、果ては信仰を放棄する危険に陥った、おそらく、イタリア(ないしローマ)のキリスト教徒(13:24)を念頭に置いて著された書である。
ヘブライ人への手紙 10章32−13節は、訓告的な部分である。この部分の大きなテーマは忍耐と希望である。なかなか心に染みる言葉がある。
2.11章1−40節では旧約時代のアブラハム、モーセを始めとする信仰の先達の話が語られる。
「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」(11:1)だと。
12章1-4節では、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(12:2)、忍耐をもって馳せ場を走り抜くように勧められる。
「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように」(12:3)とあるから、きっと相当な艱難に出会っている者たちへの「勧告」であったのだろう。
12章5-11節では、父なる神の鍛錬を重んじるべきことが述べられる。
「主は愛するものを鍛え」(12:6)とは「私を苦しめられたのは、あなたのまことのゆえです」(詩編119:75)が投影されている。
ここまでは、状況への受動的側面が強調されている。
3.今日のテキスト。12章12−17節では、「キリスト者にふさわしい生活の勧告」(新共同訳聖書の小見出し/12:14−29)が述べられる。
「萎えた手と弱くなったひざ」(12:12)はイザヤ 35:3が、「足の不自由な人の歩み」(12:13)は、足の進め方が道を確かなものにするという箴言 4:26が念頭に置かれている。信仰生活の積極的・主体的側面が重視される。
4.キリスト者の生活で「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい」(12:14)とある。
平和とは、人と人との正しい関係である。
聖なる生活とは、神との正しい関係である。
自覚的に平和を生み出すこと、隣人と和解すること、そのことと、神を求め、神との交わりを与えられ、神の赦しを受け入れる生活とは、切り離されてはならないことを言っている。
生活(実際)と信仰(理念)の二元化を厳に戒めた言葉である。
例えば、地球温暖化の現実と会議(主張のぶつかり合い)が比喩になるであろう。
「苦い根」(12:15)とは、この二元化をもたらす根源を言っている。そして、旧約の古事エサウの二の舞を繰り返さないようにとの戒めが記されている。
5.恵みの到来という客観的な面を持つクリスマスに対して、待降節は、自らの信仰の忍耐をもって信仰の訓練をするという主体的側面が強調される。
これなしには恵みは恵みと言いながら似て非なるもの、観念化されたものになる。
そこでは上から力が働かない。
「自分の足でまっすぐ歩く」(12:13)ことが、私たちの信仰による日毎の生活、あらゆる領域への関わりに促されている。
175-20091213◀️ 2009年 礼拝説教