降誕(2009 田中忠雄 ①)

2009.12.9、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「洋画家 田中忠雄の聖書絵から聖書を学ぶ ①」

マタイ福音書 2:1-12 、ルカ福音書 2:1-7

1.田中忠雄さんと小磯良平さんとは、神戸で新設された平野尋常小学校で6年の時同学年だった。田中の年譜によれば

「1915(大正4)年、12歳。…よく相生橋で機関車の絵を描いた。岸上(小磯)も描き始め、絵の競争をする。……卒業時の席次は岸上が7番、田中が8番だった…」
(年譜 田中文雄(遺族)編『特別展 田中忠雄回顧展』1998 神戸市立小磯記念美術館、p114)とある。

(サイト記)年譜によれば、10歳の時に父、田中兎毛(ともう)牧師(1864-1934)が1914(大正3)年、札幌組合教会を辞し、神戸の女子神学校の教頭、兼 日本組合基督教会 兵庫教会牧師に着任のため神戸に転居。1915(大正4)年、神戸教会につながる岸上(小磯)良平少年、兵庫教会につながる田中忠雄少年が、神戸の同じ小学校の6年生として「絵の競争をする」という出来事が生じたことになる。

 1980年代、私が神戸の頌栄保育学院の理事をしていた時代のことである。かつてこの学院で小磯さんは絵画の講師をしていた。その時代に、頌栄のためステンドグラスの原画を描いたはずだということが話題になり、ステンドグラス作製では先輩にあたる田中さんが小磯さんを尋ねてアトリエの棚にしまってあった作品にアドバイスをして、やがて「イエスと幼子」という原画が完成し、それがステンドグラス制作者によって作品化された。その作品の掲額の御披露の時、田中さんと小磯さんが揃った。ちょっと珍しい機会であった。作品は今でも頌栄保育学院のチャペルに入っている。懐かしい思い出である。

2.さて、田中さんの作品から聖書を学ぶという企画をこれから何回か始めるにあたって、思い出すことはまだある。

 田中さんは1934年(昭和9年)から東京杉並区の永福町にアトリエを建てた。画業も安定していた。田中さんはご尊父・田中兎毛さんが日本組合基督教会・兵庫教会の牧師時代には神戸で生活されたのだが、その後、霊南坂教会のメンバーだった。

 田中さんは、その教派の関係もあり、私の父の開拓伝道を親身になって応援して下さった方だ。父は、もともと銀行員だったが途中から牧師になって、東京の永福町で幾人かの信徒と共に教会を始めた。田中さんは親類の建物物件を紹介されたり、新しい教会の会計役員を引き受けて下さって初めからそこのメンバーに参加されたようだ。

(サイト記)1936-1944年の永福町教会、岩井文雄と田中忠雄と健作さん
1936(昭和11)年、岩井文雄さん34歳(健作さん3歳)日本組合渋谷基督教会伝道師就任、田中忠雄画伯33歳、永福町にアトリエを構える。
1940(昭和15)年、岩井文雄さん39歳(健作さん7歳)、除隊後、渋谷基督教会に復職。永福町に移転し永福町教会設立、翌年牧師就任。(『敬虔なるリベラリスト』p.273)
 田中忠雄画伯38歳、田中画伯年譜側にも「永福町教会を興す。幼稚園も併設する」とある。(年譜 田中文雄(遺族)編『特別展 田中忠雄回顧展』1998 神戸市立小磯記念美術館、p.119)
1944(昭和19)年、「11月、永福町の教会は、幼稚園が閉鎖になり、教会の建物の大半が中島航空機会社の、皇国○○工場事務所として接収」(田中「年譜」)。この時、田中画伯41歳、岩井文雄42歳、健作さん11歳。

 そんな訳で、私にとっては「田中のおじさん」だった。ご子息・田中文雄さん(国際基督教大学名誉教授)とは、教会学校友達であったので、田中さんの家にはよく遊びに行った。そーっとアトリエに忍び込んだ時の印象では、田中さんの絵は、暗い感じの絵だったことが子ども心に残っている。 後々の「空の烏を見よ」のように澄み切った明るさはなかった。

3.田中忠雄さんの略歴に触れておきたい。

 1903年11月27日、札幌生まれ。父は牧師。1920年、兵庫教会にて受洗。京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)卒業。二科展に「夏樹の陰」が初入選。1930-30年フランスに渡り研鑽を積む。1945年、行動美術協会結成に参加。戦前は労働者や農民などの主題が多かった。
 戦後は「彼ら石にて打てり」(1952)、「基地のキリスト」(1953)など時代の動きをキリスト教と関わらせた作品を残した。1960年「トマスの疑い」が第4回現代美術展優秀賞を受ける。1969-74年、武蔵野美術短期大学教授。その後キリスト教美術協会結成に参加。1984年、毎日芸術賞受賞。作品は聖書をテーマにしたものが多い。

ユダの汚辱」(1952)、「ゲッセマネ三題」(1958)、「空の烏を見よ」(1959)、「トマスの疑い」(1960)、「ナザレの人」(1963)、「エマオの復活」(1965)、「イエスを売る」(1970)、「地にもの書く人」(1974) 、「弟子の足を洗う」(1980)、「ゲッセマネに祈る」(1989) 。

 また同志社、関西学院、霊南坂、広島流川など、各地の大学や教会にステンドグラスを作製する。1995年11月26日、95歳にて死去。

広島流川教会の小礼拝堂ステンドグラス

4.田中さんの作品を見ると同じテーマで何枚もの作品を残している。例えば、今回取り上げた「降誕」であるが「聖誕譜」(1952) の他、同じ題で、1963年、1965年、1967年の作品がある。

 みな構図や色使いは異なるので、その都度聖書から読み取ったイメージを作品にしたものだと思う。田中さんの作品ノートによると、あまたある「降誕」の絵画にもう一枚を加えることに意味があるのだろうかと、謙虚に語っているが、自分は「貧しさ」ということをテーマにしたと言っている。(『田中忠雄聖書画集』教文館 1978、p.106)

貧しさ」が「降誕」のテーマだということは田中さんらしい。

 元来「飼い葉桶」はル力にのみある表現であり、その説明として「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」(ルカ福音書2:7)の句を付している。「宿屋」は力タリューマ(泊まるところ、部屋、客問、座敷)。ルカはイエスが人間の住居以外で生まれたことを強調する。ル力福音書 22章1節は、イエスが過越しの食事をした座敷にこの語を使っている。口語訳は「客間」。人の交流のあった二階の居室であって、客にも開かれた部屋であった。それに対して、飼い葉桶のあったのは、階下の家畜の場所を意味した。象徴的には社会から隔絶された「貧しい人々」の居場所を暗示している。田中さんはそこを踏まえて作品を残した。

「降誕」は、詩的物語以前に、神学的意味を背負って語られる物語として生まれたものであろう。

 田中さんの色遣いは、暖色が用いられ、明るいのが特徴である。

洋画家・田中忠雄の聖書絵から聖書を学ぶ(2009.12-2010.9)

2.空の鳥を見よ

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