空の鳥を見よ

2010.1.13

湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「洋画家 田中忠雄の聖書絵から聖書を学ぶ ②」

マタイ福音書 6:25-34、ルカ福音書 12:22-34

1、田中忠雄さん(1903-1995)は同じテーマで幾つかの作品を残していると前回記したが、「空の鳥を見よ」も、1998年の図録には3枚の絵が載っている。1959年、1994年、製作年不詳のリトグラフである。今回収録した絵は1959年の作品である。

「創作ノート」にはこう記されている。「『イエスと自然』というのが賀川先生の聖書講話の題だった。40年も昔のことだがイエスがいかに自然を愛されていたかを説かれる中にこの『空の烏を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それだのに天の父はかれらを養ってくださる』というマタイの句を引用しての話だった。大かたの話は忘れてしまったがこの所だけは忘れなかった。画家にとってはこうした自然描写がことに楽しいのである。そしていつかは画にしてみたいと思った。プロテスタント宣教百年の記念事業があった年(昭和34)、わたしもなにか記念してあとに残す絵をかきたいと思って、そのときこの主題でいこうと決めた。主のお話をきく日本の農民の姿をそのままにと患って北海道の農村に疎開していたころのスケッチを参考にした。かんじんの空の鳥がまずかったがあとで筆を加えることはしなかった」(『田中忠雄聖書画集』1978 教文館)

2、この絵は、澄み切った明るい青が基調になっていて、それに空の鳥とイエスを白で浮かび上がらせ、聞き手の農民には暖かみのある黄土色が使われ、人物の形が黒の線で描かれ躍動感が感じられる。田中さんが自ら「まずかった」という空の烏は、彼方の超越性を象徴するように、飛翔感があって絵に動きを添えていて、私は大変よいと思っている。他の作品、1994年のものやリトグラフに比べると、この最初のものが断然明るいし緊張感がある。その緊張感はイエスと農民との、語り手、聞き手の緊密な関係を漂わすものであろう。聴衆は耳で聞くと同時に、目でも聞いている。それ程の躍動感が描かれている。

 エピソードがある。私が関わっていた幼稚園のH園長は、田中画伯のおおらかな絵が好きで、保育室にこの「空の鳥を見よ」の原寸のレプリカを掲げていた。子どもはいつもそれを見ていた。ある時、その園で、私はお話をすることになり、「イエス様って知っているかい」と聞いたら「ハイ、お話しする人」という答えが何人かから返ってきた。「ほら、あそこでお話ししてるじゃん」とみんなが指差した。目を大きく開いて天を凝視し、人差し指で空の烏を追うように手をかざしたイエスの印象はよほど子どもたちには強かったに違いない。

3、『空の烏を見よ』の場面は聖書のなかで、最も美しい光景ではなかろうか。自然は信仰の教師である、といったのはキルケゴールであったか。自然が「永遠性」「神」の象徴となっていることの美しさがそこにはある。

 真理が伝達される時に用いられる、言語の在り方は、およそ三つに分けられるであろう。一つは「人格言語」。人格が直接力をもつ物言いである。二つ目は「説明言語」。物事を客観的に説明叙述する物言いである。例えば「神は愛である」という言説である。三つ目は「象徴言語」。野の花、空の鳥が、そのありのままの存在において、すべてを象徴して語っているという仕方の語りである。「言語」とは言えないかも知れないが、伝達を考えると「言語」なのではなかろうか。

 イエスはその語りのほとんどを譬で行っている。それは象徴言語の語りに重きをおいているからである。「聞く耳のあるものは聞くがよい」(福音書)は、イエスの話が、象徴性に満ちていたことの証拠であろう。現今のキリスト教は「説明言語」が多すぎるのではないか。そういえば、日曜ごとの説教は、このジャンルであるが、語りのなかに「人格性」「象徴性」が欠けてくると、説教は膨らみを失う。もちろん自戒を含めてのことである。

4、田中さんが「創作ノート」で、聴衆を「日本の農民の姿そのままに」描いたと言っている時、その農民には女、子ども、男が描かれている。農業というものは人間が生きてゆく「食」にかかわる大切な生業であるが、家族がみんなでそれに携わってきた。パレスチナでもそうであったに違いない。聴衆がイエスの話を聞くために、男も女も子ども集まってきたというのではない。田中さんの「日本の農民の姿そのままに」というのは、イエスの話を聞く聴衆の共同性は、生きてゆくための自然の共同性なのである。この生業の共同性の活力と無関係に話しがなされているのではなく、まさに、生業が成り立つ自然が神の恵みの許にあることを知り、それを受けて立つ働きの共同性が活力を与えられるのである。特別に「宗教的領域」の有り難いお話がなされているわけではない。同時にそのことは、神を「宗教的領域」に閉じ込めて厳密化した、当時のユダヤの律法学者、祭司階級の神殿体制を守る人々への痛烈な批判が、この絵の構図には込められている。


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