ナザレの人(2010 田中忠雄 ③)

2010.1.27、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「洋画家 田中忠雄の聖書絵から聖書を学ぶ ③」

マルコ福音書 1章35節-39節

1、ナザレというと私たちは讃美歌21 287番「ナザレの村里(54年版272番「ナザレのふせやに」)から、静かな田舎町を連想する。しかし、田中画伯が訪れたナザレはそうではなかった。創作ノート(「田中忠雄聖書画集」1978 教文館)には意外なことが記されている。

「ナザレには2 、3日も滞在してゆっくりスケッチをするつもりだったが着いた翌日早々ここのゆかりの町を離れることになってしまった。というのはここに住む観光客めあてのアラビア人の図々しい態度、その子供たちの不行儀に辟易してしまってとても落ちついてスケッチなどしていられなかったのだ。貧しくて、不潔で、根性が悪くてというのがわたしのナザレでの印象なのであって、人々が想像するような清く美しい町などとは言えたものではない。」(『田中忠雄聖書画集』教文館 1978、p.106-107)

2、田中さんがナザレを訪れたのはいつ頃であったであろうか。この地方は1948年のイスラエル建国以後、土着のパレスチナ人は家屋敷を奪われ、イスラエル入植者政策によって、シリヤなどに追い出された。残った貧しいアラビヤ人は、いわゆる「マリヤの井戸」 への「聖地観光」に来る観光産業に依存して生活をせざるをえなかったのであろう。わたしが友人たちと共にナザレのパレスチナ人聖公会のリアーハ・アッサール牧師を訪ねて教会の客室に泊めてもらった時、日本の観光客は「井戸」までは来るが、教会を訪ねるものはいない、と言っていた。彼は、この町のストリート・チルドレンの保護活動に取り組んでいた。彼はイスラエル政府から何度も国外追放されたという。多分、田中さんはイスラエル占領下のナザレという認識をあまり持たずにこの町を訪れたのではないか。しかし、ノートを続ける。

「そういう現実のナザレではあるが、おそらく主イエスの時代もこんなではなかったかとわたしは思うのである。これという生産もなく人々は貧しく、病気になやみ、利己的で疑い深く、そうした中にイエスは育ち、そしてこの人たちを救う道を考えられたのだと思う。
 故国に帰ってきて月日が流れてゆくうちに、あのアラビヤ人の子供たちに石をぶつけられた不快な思い出もうすらぎ、逆に、ナザレの町のスケッチを取り出してみるごとに、回想の念は高まるのであった。
 そんな時、病める者をおとずれて戸を叩くこの構図が頭の中で組み立てられたのであった。」(『田中忠雄聖書画集』教文館 1978、p.107)

3、この絵を見ていて、わたしにはルオーの「郊外のキリスト」が連想された。

(サイト記)2020年1月開館のアーティゾン美術館(東京・京橋、旧ブリヂストン美術館)がルオーの「郊外のキリスト」を所蔵しています。残念ながらまだサイトに掲載されていません。非常に多くの方がそれぞれの画像をブログにアップしていますので、必要があれば検索いただければと思います。

 うらぶれた郊外の月夜に一人路上にたたずむキリストは孤独であると同時に、孤独な人々の心の扉に寄り添っているような絵であった。

4、田中さんの絵は、1963年の作品で、第18回行動美術展に「ペンテコステ」と共に出品された作品である。

 両者共に、白と黄色を基調にして黒い線で構図を整えた絵である。「ナザレの人」は創作ノートでは「ナザレの訪れ」となっている。町を包む暗さからすると光景は夜かまたは夜明けであろう。窓の灯が描かれていないから、夜明けではないか。何しろイエスは早起きの人であったらしい。まだ家々に閉じこもった人々の心が、動きださない沈んだままの感じで描かれている。それだけにイエスの白い衣が行動的イエスをひき立たせる。

5、聖書にはイエスがナザレで人々の家を訪ねたという直接の記事はない。今回はマルコ福音書の1章35-39節の「巡回して宣教する」(新共同訳、見出し)と関連させてみた。そこには「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所に出て行き、そこで祈られた」(1:35) とある。イエスは独りで行動する。その行動は祈りから始まる。田中さんの絵が、イエス一人だけを描いている所にインパクトがある。微かに隣の家の玄関に人の気配はするものの、イエスの独りを阻害するものではない。イエスにとって「独り」 というのは基本的テーマである。

 さらに、マルコのテキストは「近くのほかの町や村へ行こう」(1:38)、また「ガリラヤ中の会堂に行き」(1:39)とある。わざわざ「ほかの町や村へ行こう」というのだから、あのナザレでは「預言者が敬われないは、自分の故郷、親戚、親戚や家族の間だけである」(6:4)という経験を経てのことであろうか。でも、ナザレはイエスにとって愛して止まない故郷であったに違いない。受け入れられないにも拘らずナザレを訪れるというのは、田中さんの信仰の構図であったに違いない。

 ナザレは坂の町である。田中さんもあの坂を上ったり下りたりしたのであろう。この絵は背景が小高くなっていて、坂の町の趣がでている。「町や村」を訪れるということは、限り無く人間への温かみを感じさせる。それは、決して「都会」ではない。当時都会は工ルサレムであった。そこには宗教的・政治的権力が渦巻いていた。ナザレは辺境であり、たとえ預言者を因習によって排除するしがらみがあったとしても、なおそこに悩める人を訪ねる人が「ナザレのイエス」であったのであろう。

「空の鳥を見よ」は語るイエスが描かれている。だが、「ナザレの人」は耳を戸の外からでも傾けて「聴く」イエスである。頭を傾け、右耳を戸に近づけ、おとなうイエスを、田中さんはこよなく大切にする画家であり、信仰者であった。

洋画家・田中忠雄の聖書絵から聖書を学ぶ(2009.12-2010.9)

▶️ ④ 基地のキリスト

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