2010.1.10、明治学院教会(179)降誕後 ③
(阪神淡路大震災から15年、単立明治学院教会牧師 5年目、健作さん76歳)
マタイ 1:16-17
“ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで14代、ダビデからバビロンへの移住まで14代、バビロンへ移されてからキリストまでが14代である。”(マタイによる福音書 1:16-17、新共同訳)
1.今日お読みしたところは、新約聖書マタイ福音書の冒頭「系図」の場面です。
系図掲載のマタイの意図は何だったのでしょうか。
「マタイ」の成立は紀元80年代、当時ユダヤ戦争によりエルサレムは崩壊し、神殿を失ったユダヤ教は律法を中心としたパリサイ派が主流となっていました。
「ユダヤ教イエス派」はユダヤ教の民族的信仰基盤を大局的には受け入れつつ、民族的信仰の救いの成就が「イエス・キリストの福音」という説き方をしました。
ダビデ王に与えられた約束(サムエル下 7:12-14)が成就したという意味で系図を用います。しかし、他方、福音はユダヤ教の律法主義の直接の延長線上ではなく、神の出来事であることを強調するのが、もう一方の意図でした。
それは、イエスが「聖霊によって身ごもっている」(マタイ 1:18)ことを述べることで、夫ヨセフの系図がマリアを媒介としつつも男系では不連続であることに示されます。
当時ユダヤ教では、イエスの誕生に対して「不倫」によるものだとの攻撃があったので「聖霊の働き」が強調されましたが、神学的には歴史を場としながら、そこに出会う神の出来事としての福音の特質を明らかにしたものだと思われます。
2.マタイはここで二重のことを言っています。「変わるもの」と「変わらないもの」が重なりあった関係です。
人間の直接性(地縁・血縁・王位・財力・伝統・系図・能力など)はそれが”器”として用いられるが、その延長線上には「救いはない」ということ。
そこを”場”として「(神がわれらと共にいます)インマヌエル」(マタイ 1:23)の事実がある。
「共に」とは二重性なのです。
二重性はある場合には”きしみ”になります。「伝統」の「変革」を生きることが「救い」の積極的証しになることもあります。
逆に「変わるもの」と「変わらないもの」の並行がユーモアになることもあります。
パウロのように「今や、律法とは関係なく(口語訳:別に)……神の義が示されました」(ローマ 3:21)という面が強調されると、並行ということはないのです。
律法は破棄され、捨て去られ、「別に……神の義(救い)」を生きることになります。
ところが、マタイは「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ」(マタイ 5:20、新共同訳)と「神の義」が「別に」ではなく「律法学者の義」と競合しているのです。
この競合は奇妙なところです。系図の最後の表現、「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(マタイ 1:16)はどう読んでも、系図は断絶しているので、系図の引用の意図からすると、おかしなことです。
並列できないものが、例えば「死と生」がそこに並んでいるのが「ユーモアだ」とは文学者・椎名麟三氏の言葉です。
3.2010年は、幾多の闇を抱えている年であります。
しかし、そこをあらゆる局面で「希望」を抱いて必死に生きる人が存在する事実は「神のユーモア」です。
そんな場面・光景に出会い、感動を覚えて生き抜いてゆきたいと思います。
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