祈りつつ待つ(2009 礼拝説教・マタイ・待降節)

2009.11.29、明治学院教会(173)降誕節 ①

(単立明治学院教会牧師 5年目、健作さん76歳)

イザヤ 8:16-17、マタイ 25:1-13

1.今日から待降節(アドヴェント・来臨の意)である。

 教会暦でこの時期に読まれるテキストの一つが、マタイ25:1以下「十人のおとめ」の譬えである。

「主の来臨を待つ」ことへの信仰を強調するゆえに選ばれたと思う。

2.この譬えは、基本的にイエスに遡るものであるが、原始教会およびマタイ福音書著者の付加と説話で強調点の変化がある。ゆえに現在のテキストには二重の歴史的背景がある。

 後者(マタイ福音書著者)の関心は、終末(イエスの来臨)はすぐ来るという初期時代が過ぎて、「週末の遅延」の時代(中間時)を信者がどう生きるか(倫理)という点に重点が置かれた話になっている(付加部分:マタイ 5:5、7, 11-12, 13節)。

 二重の層を持つテキストを前にして、聖書学者(エレミアス他)は、元々の話を三部分からなると仮説を立てた。

(1)花婿とたいまつ行列の少女たち
(2)花婿到来による少女たちの混乱
(3)予備の油を用意していた少女たちの宴会への参加

 基本的に花婿到来の物語であり、「神の国(神の支配)は近づいた」(マルコ 1:15、ルカ 10:9)のイエスのメッセージの枠内にある。

「予備の油」を備えておくべきだという生活態度(倫理)への教訓に重点が移されたのは後代であって、いつの間にか恐ろしい裁きの物語に変質してしまった。

「予備の油」とは何か。

 それは危機の自覚の深さの現れに過ぎない。

 原意は「思いがけない日(時)」(マタイ 24:44、24:50)への自覚の深さへの促しである。

 だから、基本は「神支配(マタイ:天の国)」、つまりイエスの到来、イエスがいまし給うことへの自覚を、いついかなる時にでも持っているか、が問われていることになる。

3.この話は、花婿は到来した、という喜ばしい話である。

 律法を守れない、当時の遊女や「らい病」人、「地の民」という被差別者で、「選ばれたイスラエルの子」出ない者が、救いにあずかる「神の国」が到来したという喜ばしいメッセージである。

 その自覚が欠けた者(選民の誇りにあぐらをかいている者、律法学者など)が、置いてきぼりになっている現実を言っている。

 ランプも持っている、油も持っている、だが、救いがドンデン返しでやってくるという危機への自覚が欠けた者を「予備の油」がないと譬えたのである。

「よく聴きなさい。取税人や遊女はあなたがたより先に神の国に入る」の逆説への無理解が決定的な意味を持っている。

”「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。”(マタイ 21:32、新共同訳)

4.「神の支配」(イエスの到来)のメッセージは、喜ばしいものであったのに、原始キリスト教は、審きの厳しさを語り、倫理の質を問う物語に変えてしまった。

「思慮深さ」は倫理(人間の備え)の問題ではなく「神への委ね」への信頼の問題である。

 例えば、大地震に備えると言っても、最後のところで「神に委ねた日頃の生き方」、自己の在り方、他者との連帯がものを言う。

「人は生きてきた様に地震にあう」とは、地震の最中で感じた、私の実感である。

5.三浦綾子さんは『この土の器をも』の中で、教え子が自殺した後、彼を責めたことを悔い、「悔い改められなかったら、悔い改めなくともいい。いつでも先生の家にいらっしゃい」と書くべきだったと、愛の欠如を悟り、その後、「他の子供たちに心を使うようになった」と書いている。

 祈りつつ待つ生活への変化である。

173-20091129

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