トマスの疑い(2010 田中忠雄 ⑧)

2010.4.21、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「洋画家 田中忠雄の聖書絵から聖書を学ぶ ⑧」

(明治学院教会牧師 健作さん76歳)

ヨハネ福音書 20章24節−29節 

 新約聖書には4つの福音書があるが、ヨハネ以外の3つは「共観福音書」といって相互に資料的関係を持っている。このことは繰り返し述べてきた。ヨハネは、それらに比べると年代も遅く(A.D.100年頃)、全く別な教会的基盤(ヨハネ文書を生み出した教会)を背景としている。この福音書記者が「共観福音書」の記事を知っていたかどうかも定説がない。知っていた上で、自分の教会に独特な信仰理解(神学)を提供したとも考えられる。「共観福音書」には出てこない物語が収録されている。例えば「カナの婚礼」「ニコデモ物語」「ベテスダの池の病人のいやし」「生まれながらの盲人のいやし」「ラザロの物語」、今日とりあげた「トマスの物語」はその一つである。

 現在我々が手にしているヨハネ福音書は21章まであるが、21章は後世付加された補遺であって、元来のヨハネは20章迄であったというのはほぼ定説になっている。とすると「トマスの疑い」はこの福音書の最後の物語になる。そんな観点からみると「疑い」という実証的問いから、主体的・実存的問いへと、問いの在りようへと、問いそのものを変えることをこの最後の箇所は促しているように思える。トマスの「わたしの主、わたしの神よ」(28)がこの福音書の締めくくりの「信仰告白」であるが、「あなたがたに平和があるように」(26)のイエスの、弟子たちへの肯定(赦し)のうちに信仰が成り立っていることを告げている。中心点はトマスの疑いを超える、イエスの存在そのもの、イエスの出来事(リアリティー)への驚きが最後の締めくくりになっている。

 田中さんの絵には、そのイエスの存在の重みが出ているのではないか。トマスに「これでもか」を念押ししている存在感がある。またトマスの「まいった」という驚きがよく出ている。画面の左を青で表し、右端には白を用いて、永遠や超越性を暗示し、イエスを赤の背景を用い、命の象徴である黄色を用いている所が、この絵を躍動的なものにしている。

 田中さんは、創作ノートで、次のように語っている。

「しるしを見ないうちは信じられなかったトマスについてはわたしの心の中では自分もトマスと同じではないかという気持ちがあった。『見ずして信じるものはさいわいだ』といわれても、そのとおりにならないのはなにも現代人だけのことではない。しかしどうしてもわからないなら、しるしを見せてあげようという厳しい姿のイエスも描いてみたかった。」(『田中忠雄聖書画集』教文館 1978、p.110)

「厳しい姿」といっているが、わたしには「存在感」という言葉で表す方が個人的には親近感がある。

 小磯記念美術館学芸員・廣田生馬氏は次のように解説している。

「ざらざらとした画面の質感が印象的な本作には、ヨハネ20章の場面が描かれています。イエスの復活を実際触るまでは信じられなかった使徒のトマスを、見ることなく信じるものになれ、とイエスがさとすシーンです。目前に現れたイエスの脇腹の傷痕に指を差し入れたトマスの驚きが、画面から強く伝わってきます。見えるものしか信じられないトマスの心理は現代にも通用しますが、『心の中で自分もトマスと同じではないかという気持ちがあった』と田中忠雄は言っています。本作は、第四回現代美術展で優秀賞を受けています。(東京国立美術館蔵1960年作品)」(『図録』p.106)
(サイト追記)この出典『図録』はサイト編集者の手元になく、引用語句の正確さは確認できていません。

 私自身の、説教記録をみると、この箇所で1998年4月12日に、復活祭の墓前礼拝で「トマスの疑い」という説教の記録がある。その中にこんな言葉がある。

「彫刻家ロダンの作品に『考える人』がある。ロダンはその制作にあたってトマスを思い起こしたといわれている。疑ってみること、まず自分が主体であるということは大切なことである。しかし、その主体が陥りやすい自分本位、主観性、自分中心の危険がたえず破られていくために「考え」「悩む」というプロセスは欠かす事ができない。そのプロセスのすべてを見守る地点に立っているのが「十字架の死を経て」導く方「復活の主イエス」ではなかろうか。

 ヨハネにいう「信じる」を「観念への滑り込み」や「盲信」「主観的信心」と理解してはならない。

 ほんとうに「主体的」とは「あの方との相互主体的な在り方」への促しであることを覚えたい。

洋画家・田中忠雄の聖書絵から聖書を学ぶ(2009.12-2010.9)

11.塩になったロトの妻

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