幼子の復権(2012 礼拝説教・マタイ)

2012.11.18、明治学院教会(294)降誕前 ⑥

サムエル上 3:15-18、マタイ 11:25-30

天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のようなものにお示しになりました。”(マタイによる福音書 11:25、新共同訳)

1.「”神”の知恵が幼な子に示される」という考えは古くから聖書にあります。

”わたしは再び、驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び、聡明な者の分別は隠される。”(イザヤ 29:14、新共同訳)

”主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える”(詩編 19:8、新共同訳)

 などはそれに当たります。

 今日お読みしたマタイ11:25は、イエスが「祈り」としてその考えを表明している箇所です。この箇所について研究者は、アラム語の語調が強く残っているので、真正なイエスの言葉だと言っています。

 イエスは他の箇所でも

”子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。”(マルコ 10:15、新共同訳)

 と述べています。

 またパウロの言葉にもある

”神は…世の無学な者を選び…無力な者を選ばれました”(Ⅰコリント 1:27、イザヤ29:14を引用。Ⅰコリント 1:18-28)

 は同じ思想を語っています。

 今日の箇所の伝承を残した初期の教会(Qグループ)は強い者が幅を利かす世俗の波風の中で、イエスに従う自分たちの小さな弱いグループを「幼子」になぞらえて「逆説的」な励ましを自らに言い聞かせていると思われます。

2.星の王子さま、モモ

 子どもを逆説的に大人を凌駕する存在として描いている文学の中では、聖書と同じテーマが喚起されています。

 例えば、サン=テグジュペリの『星の王子さま』。王子さまは、自分の住んでいた星とバラの花に別れを告げて旅に出ます。新しい出会いを通して友情と愛することの本当の意味を知るための旅です。もろくはかない王子さまの存在は、この世の社会法則の圧倒的な力で生きている大人の分別を批判しているとも思えます。

 ミヒャエル•エンデの『モモ』。「時間どろぼうと、ぬすまれた時間をとりかえしてくれた女の子の物語」が副題で、幻想的な童話形式のお話です。巨大な現代都市に暗躍して個々人から固有な時間を奪う「時間貯蓄銀行」の「灰色の紳士」と闘って、モモは人間の根源的時間感覚を復権させます。モモは異次元からの救世主をすら暗示しています。人の話をよく聴いて他者の立場に自分を置く能力を持っています(私にはイエスを暗示しているようでした)。このお話には「星の時間」が出てきます。「星の時間とは、まったく一回きりしか起こりえないようなやり方で、たがいに働くような時間のことだ」と時間を司る人、マイスター•ホラは語ります。

”この宮の 森の木下に 子供らと 遊ぶ春日は 暮れずともよし”という良寛の心にも通じます。

「出会い(エンカウンター)」とか「邂逅」という言葉には人知を超えた出来事への想いが込められていますが、子どもの世界には奇跡のような「神との出会い」の暗示があります。

3.イエスの祈り

 さて、今日の箇所は「イエスの祈り」です。「天地の主なる父」は、元来はイエスの「アッバ(”お父さん”の幼児語)」という率直な祈りの姿がありましたが、伝承過程で儀式的な言葉に改変された、と言われます。

「幼子」はギリシア語の「ネーピオス(幼児、子ども、無学な者、未熟者、小さい者、新約聖書に11回)」で、”神”に頼る以外に生きる術を持たない、力なき者です。

 各自の人生にもそんな場面や経験がきっとあるでしょう。

 そんな思いを大切にして、幼子のように祈る「祈り」を大事にして、内なる「幼子の復権」を心に宿してゆきたいと存じます。

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